Pixivと株式会社インパクトの共同企画が許されるべきではない理由

ソーシャルゲーム「HARLEM HEART」イラストコンテストの応募要項へのツッコミ - Togetter

 こちらの件。正直、初見では簡単に善悪の付く問題ではないかもしれないな、と思った。Pixivでオリジナルイラストを集めてそれでカードゲームを作るという企画自体は上手くすれば面白いものになるかも?とも思うし、確かに応募要項は怪しげだが、こういった要項に過剰防衛的なお約束文言が入るのは、まあ良くないこととは言え良くあることでもある。実際に額面通りに運用されるようなことはまずないし…とも思ったのだが、同社が2011年の8月に同様の企画を立ち上げており、その顛末を調べるにつれ、これは許されざる邪悪な行為だと確信したので、あえてブログ記事にすることとした。

最低限の約束すら守っていない

 まず外堀を埋めておこう。2011年8月に開催されたアルティメットセブンイラストコンテストの応募要項に次のような一文がある。

http://www.pixiv.net/event_ultimate7_terms.php
株式会社インパクト
(4)投稿者へ審査結果を個別にお知らせすることはありません。なお、本コンテストの結果発表は、当社ホームページにおいて行われます。優秀賞受賞作品においては、投稿作品およびpixivのペンネーム、採用作品においてはpixivのペンネームが本サービスに掲載されます。

 どのような形で発表されているのかとホームページを隅から隅まで見てみたが、結果発表のページがどこにもない。入賞作はおろか優秀作の掲示すらどこにもない有様。いったいどうなっているのかと更に調べたところ、結果発表自体はPixivのお知らせページで行われていた。が、そこで更に驚愕の一文を目にすることになる。

[pixiv] お知らせ - 「アルティメットセブンイラストコンテスト」受賞作発表
今回のコンテストでは大変優秀な作品が多く、多数の作品が入選いたしました。大変数が多く全ては掲載しきれないため、その中の一部だけご紹介させていただきます。
今回ご紹介していない入選者の皆さまには、pixivメッセージにてご連絡させていただきます。楽しみにお待ちください。

 なんと入選してゲーム内のカードとして採用したものについても一般に発表は行わない。投稿者自身とゲームをプレイした人以外にはどのイラストが入選したのかすらわからないという。さすがにこれはコンテストとして有り得ない。Pixivのお知らせページの仕様上ある程度以上の分量を載せられないということは考えられるが、そもそも応募要項ではホームページでの発表を謳っており、その通りにしてあれば少なくとも最低限コンテストとしての体はなしているとは言えるが、それすらもない。この時点でコンテストというのは無料素材集めの方便でしかないのが確定的になるわけですが。

投稿者にも利用実態がわからない

 とはいえ投稿者自身が応募して結果として楽しんだのなら外野がとやかくいう話でもないかもしれない。ということで参加者の声を探してみたのですが案の定というべきか。素材の形でデータを要求しながらどのように加工してどのような形で使用されているのかの報告も一切なしという。

ゲーム自体の評判も散々

 当然の成り行きではありますが、このような志で作られたゲームが面白くなるわけもなく、2chの関連スレッドを見ても半年で33レスというお寒い状況。モバゲー内の公式サークルも覗いてみたのですが、どうやら2月1日を最後にゲーム内容のアップデートも一切行われていない模様。

http://unkar.org/r/sns/1321854488

最大の問題はPixivの態度

 通常ならこのような評判のタイトルであれば儲けが出るはずもなく、早晩撤退となってメデタシメデタシなのですが、それがほぼ同じ形を踏襲して第2弾の企画を起こすという。つまり、前回の企画がアレでリクープできちゃってるということだが、これが1回目の企画であればPixivとしてはそんなつもりではなかった。たまたま組んだ相手が悪質だったと言うことも出来る。それが2回目ともなれば全く何の言い訳も立たない。Pixivは株式会社インパクトが投稿イラストを無料素材として扱うことを承知した上でこの企画を通しているんだと断ぜざるを得ない。

 実のところPixivでは同種のイラストコンテストというのは毎月のように行われていて、おそらくはPixivの収益源の大きな柱になっているのではないかと思われるのだが、ここまで悪質なものは他にはない。例えば今現在同時に開催されているカプコンのPC向けブラウザゲーム鬼武者SOUL」のイラストコンテストもほぼ同じ形を踏襲しているものの、ゲーム内で使用する場合は個別に契約し所定の原稿料を支払う旨が明記されている。

 また昨年行われたコナミのモバゲー向けソーシャルゲーム戦国コレクション」のイラストコンテストもほぼ同じ文面だが採用されたものは佳作でも3万円の賞金を用意して、当然無料での使用などということは謳っていない。

[pixiv] 【公式企画】鬼武者Soul×pixiv イラストコンテスト 応募要項
【戦コレ武将】「【公式企画】戦国コレクションイラストコンテスト」/「pixiv事務局」のイラスト [pixiv]

 他社があくまで人材発掘あるいはPRの一貫としてやっている企画の中にこういった悪辣な企画が混じれば、形の似た企画をやっている同業他社全てに非難が振りかかる恐れもあるわけで、Pixiv自身にとっても自らの首を絞める行為であることを自覚していただきたい。

 こうしたコンテスト形式の人材募集そのものの是非も議論の余地のあるところで、それぞれ思うところもあるとは思うものの、今回のこれはそういう「議論の余地のある」一線をはるかに超えた悪質さであるということを理解していただければ。

20xx年のゲーム事情

※この物語はフィクションです。

20xx年某日

「プロデューサーさん!朝ですよ!」

スマートフォンから流れる女の子の声で目を覚ます。彼女はとあるソーシャルゲームから生まれたゲームキャラクター。最近のスマートフォンには、こういった対話型の秘書機能が標準で付いている。かつてiOSの一機能として世に知れ渡ったそれが、その音声やアバターがアニメやゲームのキャラクターにとって変わられるのはこの国では時間の問題だった。

「今週発売のゲームって何があったっけ?」

こう尋ねるだけであらかじめ登録しておいた興味範囲にそって的確な応えが返ってくる。

「水曜日の15:00からスト拳ファイターXXの新キャラクターのリリースがありますよ〜あとドラゴンファンタジー13-13の先行プレイ日ですっ」

そうだった。随分前に予約したあの大作RPGの新作がついに発売されるのだ。ぼくが買ったのは初回限定生産特典付きのプレミアムパッケージ版。ダウンロード販売が主流になった今でもこういった特典付きのパッケージはまだ生き残っている。と言っても大半の人はダウンロードで済ませて、パッケージを買うのはコレクターやシリーズの熱心なファンだけなのだが。

先行プレイ日というのはこのパッケージ版を買った人だけに与えられるスペシャル特典。なんと、正式リリースより1日
早くダウンロードしてプレイ出来るのである。そう、パッケージは買っても基本的には開封すらしない。インストールもあらかじめ予約していれば勝手に終わっていて、テレビのスイッチを入れるだけでいつでも始められる。まったく手間いらずになったものだ。

最近のRPGは章立てになっているものが多く、このドラゴンファンタジーも例外ではない。全8章のうち第1章は無料で誰でもプレイ出来て、第2章以降は1章1000円といった寸法。もちろんパッケージ版は最初からオール・イン・ワンだ。

よし、金曜日の夜は徹夜でクリアするぞ。レベル上げももう十分にしたしな。

そう考えて、そういえば昔はゲームをプレイしながらレベル上げをしていたんだよなあ、とふと懐かしいことを思い出す。ストーリー進行とレベル上げが分離されているのが当たり前になったのももう随分前だ。今時の大作RPGは先行リリースされたソーシャルゲームと連動して、あらかじめレベル上げを済ませておける。ボタンをポチポチと押すだけの単純なゲームだが、世界観のフレーバーをあらかじめ味わうことが出来るため、複雑で壮大なストーリーにもスッと馴染め、何時間も没頭してプレイすることが出来る。大作と言っても通しで15、6時間もあればクリアできるので休日を丸一日潰す趣味としては最適だ。

 水曜日に新キャラがリリースされる格闘ゲームももう随分と長い付き合いになるタイトルだ。格闘ゲームの長寿の秘訣はこうして定期的に新キャラクターを投入してゲームバランスを変えていくことだなあとつくづく思う。ぼくは月額1000円のプレミアム会員だが、このゲームもまた多くの人は無料で楽しむことが出来る。月に10クレジットまでは無料登録で自由にプレイすることが出来るし、対戦を申し込むのではなく、申し込まれる側になればその制限もない。もちろんプレミアム会員になればまったく無制限だし、アバターアクセサリ購入のためのメダルもついてくるので損をしている気分にはまったくならない。むしろ対戦相手に困らなくてありがたいくらいだ。

アバターアクセサリはプレミアム会員でなくても勝負に勝ってポイントを貯めれば購入でき、みんな自分のキャラクターを個性的に着飾って見ているだけでも楽しい。この格ゲーのキャラクターをスマフォの秘書にしている人も多い。

「あと、○○さんからゲームの招待メールが届いていますよ」

おっと、あいつからの招待ならなかなか期待できるな。あとでプレイして、感想を伝えなきゃ。

招待メールで新作ゲームに友達を招くという販促方法も随分前からすっかり定着した。今時のゲームはほとんど全て無料で始めることが出来るが、数が多すぎてどこから手をつけていいのかわからないのでこういった招待メールはとてもありがたい。

昔は招待メールを無料で送ることが出来たため、誰彼構わずメールがばら撒かれてスパムのようになっていたのだが、最近は招待1件成立ごとに有料の招待券を消費するので本当にオススメしたいゲーム以外のメールが来ることはまずなくなった。もちろん、送った側もその価値に見合うだけのゲーム内アイテムを手に入れられるわけだが、何百通も送ってその全部に招待を受けられてしまってはたまらないので送る相手も自然と厳選される。自分も月に2~3000円くらいは招待券を購入して友達に送っている。

かつて、ネットのものは全て無料になると言われていた時代があった。ゲームは全て単純なクリックゲームに取って変わられると言われた時代があった。そう思うとなんだかとても懐かしいような気分になってくる。現実、確かにほとんどのゲームは無料で遊び始めることが出来るようになった。そのおかげでゲーム人口はそれ以前の何十倍と膨れ上がることになった。そうして、ゲームに対して無料で始めて後からお金を払うというスタイルがごく自然に、すっかり定着した。

何千円とするパッケージをほんのちょっとの前情報だけで博打的に買っていたあの時代というのは今から考えると狂気じみていたなあとすら思う。もちろん、それゆえに生まれた文化というのもあったわけなんだが。ゲーム人口の膨大化は単純なものも、複雑なものも、万人向けなものも、ニッチな趣味人向けのものも、ありとあらゆる形のゲームを受け入れる土壌ともなった。

本当に豊穣な世界というのは、つまりこういうことなんだろう。
ふと昔を振り返りそんなことを思う、今日は20xx年4月1日。

「朝まで生ソシャゲ」にゲスト出演します。

 ねとぽよさん主催のロフトプラスワンでのイベント「朝まで生ソシャゲ」に縁あってゲスト参加することとなりました。

http://netpoyo.jp/event/20120331

 開催日時は31日24時から、つまり実質4月1日ですね。開発者さん、研究者さんを交えて、ソーシャルゲームの今と未来について一晩語り明かそうというイベントということで、私は「コンプガチャシミュレーターの作者」という肩書きで紹介されていますが、まあ一般人枠ですねw。観客席も巻き込んでの熱い論戦を期待しているということで、一言物申したいという方がいましたら是非飛び込み参加していただければと。私自身も、4月1日らしいホラ話が出来ればなと意気込んでいます。

 私は第2部からの参加ということになっていますが、前半第1部はニコニコ生放送でのライブ配信もされるようですので、現地まで来られない方はこちらで参加するのもいいですね。

朝まで生ソシャゲ〜ドリランド・アイマスシンデレラガールズ・ソシャゲの未来〜 - 2012/04/01 00:30開始 - ニコニコ生放送

「初音ミクって何がすごいの?」という問いに答えてみる

 ひさしぶりにガッツリとした初音ミクについての考察記事を読んで、自分でもちょっと書き留めておきたいな、と思いました。

http://d.hatena.ne.jp/NekotaInujiou/20120325/1332671483

 初音ミクはすごい。そのことに異論のある人はもはやほとんどいないのではないかと思います。彼女のために何万というオリジナル曲が書かれ、それを何十万という人達が歌い、何百万人あるいはそれ以上の人達が聞いている。その広がりは国境も越え、彼女の歌声とキャラクターの創作に関わる人達は今も増え続けている。そんな存在はおそらく空前絶後でしょう。問われているのは、いったい何故彼女が、彼女だけがそこまで巨大な存在になることが出来たのか、ということですね。

 私はそれは、初音ミクが不完全な存在だったからだと答えます。

 歌声しか存在しなかったから、そこに物語を書き込む人達が現れた。声が少し物足りないから、それを自分の声で歌う人達が現れた。1枚の立ち絵しか存在しなかったから、イラストを書く人達があらわれた。イラストだけでは物足りないから、動画を作る人達が現れた。3Dモデルを作る人が現れた。それを支援するツールを作る人が現れた。その創作の連鎖が、ほんの小さなコミュニティで始まったこのキャラクターをいつしか世界最大の歌姫にしてしまった。

 初音ミクのことをよく知らない人に説明するなら、こんな感じでしょうか。そして、その創作の連鎖を支えたのは間違いなくニコニコ動画という場の力です。順を追って、歴史を辿ってみましょう。

初音ミク以前のニコニコ動画

 初音ミクが現れる以前のニコニコ動画は、いわゆるMAD文化―出来合いの作品を組み合わせてまったく違う文脈に作り替えてしまう遊び―が全盛を迎えていました。MAD文化自体はニコニコ以前から古い歴史を持っていますが、出来合いの作品に違う意味を加えるという作法がニコニコ動画のコメントシステムと非常に相性がよく、当時のニコ厨達はとにかく何か新しいネタがあればそれに別のネタを手当たり次第に組み合わせて面白がっていたんですね。

 初音ミクは、Vocaloid2という名称が示す通り、YAMAHAの歌声合成技術の第二世代。第一世代であるMEIKOは当時既にニコニコ動画の一部で用いられており、そのMEIKOを使用していた人気動画製作者の一人、ワンカップPが、初音ミクブームの最初の火付け役になります。

それはいつもの祭だった

 歌声合成技術の第二世代が出る。しかも今度はなんだか可愛い女の子のイラストがパッケージだぞ、ということで初音ミクは発売前から既に一定の注目を集めていました。といっても、今のような大ブームを予感させるものではなく、あくまで新しもの好きな人達にとって新奇なオモチャが出るぞ、ということで楽しみにしていた人が少なからずいた、ということですね。しかしどうやらこの時点で既にメーカーの予想を上回る需要があったようで、Amazonで注文したのに届かないという事態が発生します。その悲喜こもごもを表現した一連の動画がランキングを席巻し、その時初めて多くの人の目に初音ミクという存在が知れ渡ったんですね。

 といってもまだこの時点では初音ミクMEIKOもあくまで既存曲のカバーや替え歌を歌わせるツールといった体で、あくまでニコニコ動画のMAD文化の一端に過ぎなかったんです。初音ミクブームの決定的な契機はミクオリジナル曲として最初の大ヒットとなったこの曲の登場を待つことになります。


歌姫初音ミクの誕生

 公式には何の背景設定も持たない初音ミクが、自分自身のことを歌にして歌う。この時から歌姫初音ミクというキャラクターと物語がユーザーたちの手によってどんどん付加されていくことになります。その当時のことは以前にも一度記事にしました。

初音ミクという神話のおわり - 未来私考

 上記記事では、初音ミクの初期のブームは初音ミクというキャラクターの共同幻想を皆が抱いたから、としていますが、実はもうひとつ重要な要素があります。それは、初音ミクを使って、初音ミク自身について歌った曲を書けば皆に聞いてもらえる、という事です。作曲をやっている人にとって、自分の作ったオリジナル曲を誰かに聞いてもらえる、それ以上の喜びというのはありません。それまではニコニコ動画という場は出来合いのものと出来合いのものを組み合わせる事が主で、そこに真っ更な創作を受け入れる土壌というのはまだなかった。それが初音ミクという媒体と組み合わせて作ればオリジナル曲を聞いてもらえる。であるからこそ気合を入れて「初音ミクらしさ」を追求するし、その結果として初音ミクというキャラクターはどんどん洗練されていった。そしてその物語を持つ楽曲群が今度は絵師たちの創作意欲を刺激します。

無限に広がる創作の連鎖

 初音ミクのためのオリジナル曲を聞いた絵師たちがそこからイメージを膨らませて描いたイラストをPixiv等に投稿する。あるいは特定の動画の為にイラストを書き下ろしてそれが動画にも用いられる。公式に用意されたたった2枚のイラストでは物足りなかった動画製作者達にとってはそれは非常に強力な側面支援で、お互いに求め求められる関係の中、曲もイラストも膨大な点数が作られ続けていきます。既にある初音ミクに関する創作が組み合わせの片一方となり、もう片一方に真っ更から創作した新しい何かを組み合わせる事ができる。それが当時ニコニコ動画で流行したものの中で、ミクだけが持っていた特質なんです。

 ここで更に、もともと無関係なものを組み合わせて使うMAD文化が下地としてあったことが功を奏します。用意されたイラストや楽曲を、製作者の許可も取らないままに組み合わせ、つなぎ合わせ、あるいは改変する。それは多少のトラブル含みではありましたが、ニコニコ動画の元々の文化として受け入れられて行きました。人気の楽曲に、まったく別の誰かがハイクオリティなPVを組み合わせる。勝手にカラオケバージョンを作って歌ってみる。曲だけ頂いて替え歌にしてしまう。無法といえば無法ですが、それゆえに無限の順列組み合わせが試され、爆発的な広がりを見せていったんです。

肉体を得た初音ミク

 初音ミクの広がりを考える上で、もうひとつ外せない要素がニコニコ技術部との関わりです。ニコニコ技術部とは、ニコニコ動画上で何らかの科学技術を用いた動画を投稿している人たちの総称。彼らもまた、初音ミクの動画ならば何でも見てもらえるという状況を利用して、初音ミクをモチーフにした様々なガジェットを制作、発表していきました。その中でも特に注目を集めたのが、初音ミク実体化計画と呼ばれる、初音ミクを何らかの形で現実世界に具象化させようとする一連の作品群。この流れがあったからこそ、初音ミクはイラストや音楽といった分野に留まることなく技術者や研究者をも巻き込む一大ブームとなって、やがて伝説のライブまで辿りついた、そう考えています。

ニコニコ技術部とは (ニコニコギジュツブとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
初音ミク実体化計画とは (ボーカロイドジッタイカケイカクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 
 初音ミクが具現化して現実にライブを行う。その夢想自体は実はミクブームの最初期からありました。しかしそれは肉体を持たない不完全な存在であるミクにとってはあくまで絵空事の世界のはずだったんです。

 それが、MMDに代表されるような誰でも扱うことの出来る3Dモデルが登場し、その3Dモデルを立体投射する装置の開発に挑戦する者たちが現れ、ついには立体投影されたミクが生バンドの演奏をバックに歌い踊る現実のライブがこの世に実現してしまったわけです。こんな展開は、少なくとも発売からわずか3年足らずでこんなことが実現してしまうなんてことは、さすがに誰も想像出来なかったでしょう。

初音ミクを創ったのは誰か

 改めて、初音ミクという存在の何がすごいのか、という問いに答えます。それは、初音ミクという存在を今の形に創り上げるその過程に関わった人の数の圧倒的な多様さです。

 エンジンを作ったYAMAHA、ライブラリとパッケージを作ったクリプトン、歌声を吹き込んだ藤田咲さん、イラストを描いたKEIさん。それは初音ミクというソフトウェアの核をなす要素ではありますが、いま世間一般で初音ミクとして認識されている存在のほんの一部でしかありません。ほんのわずかな要素しか持っていなかった初音ミクに、皆が思い思いに形を加えていき、膨大な数の人が育ての親となった。それゆえに数多くの人が彼女を身近に感じ、親身をもって接することとなった。それこそが初音ミクのすごさの源泉であり、今もまた成長を続ける原動力である、そう私は考えています。

「サカサマのパテマ」のダイタンなプロモ

 「イヴの時間」の吉浦康裕監督による新作映画「サカサマのパテマ」。その前日譚に当たる短編アニメの第2話がニコニコ動画で公開されましたね。このタイトル、ニコニコ生放送で配信されているあらゆるアニメの最後に第1話を配信するという大胆なプロモーションを行なっており、そこで目にした人も多いのではないでしょうか。

 もしまだ見ていない人がいれば上記リンクから。まず第1話を見ておいてください。

 文明が衰退し人々が地下に追いやられて慎ましやかに暮らす未来。その退廃した世界を舞台に少女が冒険の旅に出る何処かで見たようなファンタジー。一見してそんな印象を抱く人は多いのではないでしょうか。確かに映像はハイクオリティーですが、どことなく古風で、正直今どき受けなさそうな作品だな、というのが最初に抱いた印象でした。ニコ生の最後でも、1ヶ月に渡って繰り返し何度も何度も目にする人が多いこともあり、あまりポジティブなコメントがつかない。

 面白いプロモーションだけど上手く行くのかなーと思っていたのですが、その印象が第2話を見て文字通り「ひっくり返った」んですね。

 それまで常識のものさしで「ありがちな世界」に見えていたそれが実はとても奇妙で不思議な世界だったということが、タイトルと映像の意味が一気に解き明かされる驚き。これは面白い!と唸らざるを得ません。

 こうなると、前フリとしてニコニコ生放送で繰り返し「退屈でありがちな世界」に見せていた狙いがよくわかる。だけどこれって第2話を見てもらえるという確信がないと出来ない、かなり大胆な手法なんですよね。

 とはいえ、確かにテレビの30秒のスポットCMや雑誌のスチル写真でこの世界の魅力を伝えるのはとても難しい。この作品の特性を生かした見事なプロモーションに思えます。まず最初に絨毯爆撃でタイトルとキャラクターの名前を覚えてもらっているからこそ、面白い物をちゃんと見せれば反応してもらえる、そんな自信が伺えます。「イヴの時間」という、ニコニコ動画と幸福な出会いをした作品を手がけた吉浦監督だからこそ思いついたアイデアとも言えますね。

 この序章が、この先全何話まであるのかは今のところ明かされていませんが、劇場用オリジナルアニメのプロモーションとしてとても新しくも面白く、これが興行的な成功に結びついてくれるとまた作品展開の新たな手法になるかもしれませんね。

関連記事
アニメをネット配信しない理由はない - 未来私考

「魔法先生ネギま!」よ永遠に

 週刊少年マガジンで連載されていた2000年代を代表する少年漫画のひとつ「魔法先生ネギま!」が9年に渡る連載の末ついに完結しました。ドタバタお色気コメディとして始まった本作がここまで壮大な叙事詩となると当時予想していた人はどれほどいるでしょう。漫画史に残る多大な成果を残したこの傑作の足跡を改めて振り返ってみたいと思います。


お色気学園コメディとしてのスタート

 31人の女子中学生と10歳のこども先生が繰り広げるドタバタお色気コメディ。赤松健先生の前作「ラブひな」を受ける形で始まった本作は、まずはそんな形でスタートしました。マンモス学園を舞台に魔法も超常現象も超科学も何でもアリな世界観で美少女たちが騒動を巻き起こすというオーソドックスなフォーマットは往年の名作「うる星やつら」等を想起想させます。また魔法使いの少年というキャラクターは当時大ヒットしていた「ハリーポッター」からの連想でしょうね。31人のヒロインという数で押す形式も時代を先取りしており、ヒットするべくしてヒットしたといった感が強い印象でした。

 「ネギま!」が特に形式として優れていたのは、10歳の少年を主人公に据えることで31人のヒロインとの間で色恋沙汰に発展するのを抑制していた点ですね。これは後々変化していくのですが、惚れた腫れたに発展することなく子供だから許されるハプニングエッチで賑わせるという構造は序盤においてとても有効に働いていたように思います。

少年の成長物語としての「ネギま

 その一方でこの作品は、かなり早い段階から少年主人公ネギの成長物語としての構造も早くから提示していました。毎回バカバカしいお色気コメディを繰り返しながら、生真面目で才気あふれる少年ネギが、英雄と呼ばれた父の影を追い、また悲劇に襲われた故郷の村を救うために世界の謎へと迫っていく王道のストーリー。ただのお色気漫画だと思っていたら意外と骨太で面白いぞ?と思ってハマった人も多いんじゃないでしょうか。

 またネギ少年が精神的に成長していくにしたがって、31人のヒロインの好意を一手に引き受けるハーレム型のラブコメとしても駆動し始めます。中学生と小学生、生徒と教師というタブー感も相まってヒロインたちの道ならぬ恋に感情移入して彼女たちを応援していたファンも多いのではないでしょうか。

 この、世界の謎をめぐるグランドストーリーと、学園を舞台にした恋の鞘当てという2本柱がガッチリと噛み合い相互に好影響を与えていたのが「ネギま!」という作品の最大の魅力でした。同時期の作品である「コードギアス反逆のルルーシュ」などもそうですが、一見して相反するような舞台設定を組み合わせるという手法は、あえてベタをやるためにとても有効なんですね。

英雄譚から群像劇へ 少女達の成長物語

 そうした中で作品にとって大きな転機となったのは、ファンの間で第二部とも言われる魔法世界編ですね。夏休みの小旅行という、今までの延長上のお話かと思っていたらいつの間にか世界を巻き込む一大事件へと展開し、そのまま最終回までなだれ込んでしまった…。そういった印象でイマイチ乗りきれなかったという人も多かったのではないかと思います。しかし私はここで大きく舵を切ったからこそネギまという作品は稀代の傑作となったと思っていますし、それは連載当時乗り損なった人であってもあらためて単行本で読み返すことでまた違った感想が出てくるのではないかとも思っています。

 ひとつ、重大なポイントを挙げるならば、第2部「魔法世界編」の主人公は実はネギくんじゃないんです。世界の謎に迫りスケールアップしていく中でネギくんは次第に超人的な戦闘能力を身ににつけていきます。これはジャンプ的な王道のバトル漫画の宿命的な構造で「強敵が現れる」→「修行してパワーアップ」→「さらなる強敵が」というサイクルを繰り返すことで主人公の強さが天井知らずのインフレ化を起こしてしまうんですね。そして一旦主人公の能力が上がりきってしまうと、どんな敵が出て来ても主人公ひとりで解決できてしまう、物語としての「熱的死」を迎えてしまうんです。

このサイクルを逃れるために多くの作品が世代交代や能力のリセットを試みてきましたが、このネギまという作品もまた違ったアプローチで物語の「熱的死」を回避したんですね。

 「ネギま」のとったアプローチというのは「まだネギ少年の成長が途上のうちに他のキャラクターの成長物語を同時並行して描いていく」というものです。魔法世界編というのは、31人のヒロインそれぞれが、自らを主人公とした別の物語を展開するための大仕掛だったんです。

 分かりやすい例を上げれば魔法世界編に入ってすぐ、同行の女の子たちを散り散りバラバラにしてしまったこと。これによって少女達は、ネギくんに頼ることなく自分の力で道を切り拓く物語を駆動することを余儀なくされるんですね。特にネギくんと恋の鞘当てモードに入っていた宮崎のどか綾瀬夕映といったキャラクターは魔法世界で自分たちだけの仲間を作り、生き抜く力を身にいつけていきます。

  その一方でネギくんは実に少年漫画らしい超人的成長を遂げて、世界最強といって差支えのない力を身につけるわけですが、にもかかわらず物語の帰結がネギくんだよりではない「みんなで世界を変えていく」という着地を迎えられたのは魔法世界編がネギくん一人の物語ではなく、多数の物語が同時並行して進行する群像劇として描かれていたからだ、と考えています。

智恵と勇気の物語

 ところで私は魔法世界編を読んでいて、これってすごく「大長編ドラえもん」っぽいなーなんてことを思っていました。それは、全体に通底するSF的な仕掛けもそうなのですが、夏休みのほんのちょっとした冒険が世界を巻き込む大事件に発展していくという導入、そしてネギくんが少女達に与える超強力な魔法アイテム「アーティファクト」がどうしてもドラえもんひみつ道具を連想するんですよね。例えば決戦で大きな役割を果たした村上夏美アーティファクト「孤独な黒子」を見てドラえもんの「石ころ帽子」を連想した人は多いんじゃないでしょうか。

 この、超強力な魔法アイテムと、それを使うのがごく普通の中学生というギャップもまたネギまという作品の妙味だったなあと思います。世界を救う使命があるわけでも、命を懸ける覚悟があるわけでもないごく普通の女の子たちが、今それを出来るのが自分しかないから、あるいはその仄かな恋心を原動力にして、ほんの少しの知恵と勇気で脅威に立ち向かうという構図が本当に素晴らしかった。

同時に存在する無数の平行世界

 ネギまはまた、平行世界を取り扱った物語でもあります。それは未来からの使者超鈴音の登場に始まり、最終回まで繋がる壮大な仕掛けなのですが、この並行世界の存在もまたネギまという作品の重要なテーマのひとつです。

 一般にタイムマシンとして認識されている超鈴音の未来技術「カシオペア」ですが、これは最終回で明示されている通り並行世界移動技術なんですね。つまり、超の渡った世界は全て、同時に存在している。超の元いた世界も、神楽坂明日菜が100年の眠りについた世界も、そして最終回で提示された世界も、ループ的な閉じた輪の中の世界ではなく、全てが「実際にある世界」であり、それぞれがそれぞれの未来へと続いているんです。

 ここでもやはり連想するのは「映画ドラえもん のび太の魔界大冒険」ですね。もしもボックスによって呼び出された平行世界。危機に瀕して一旦は元の世界へ帰ってきたのび太たちが、それが「なかったことにならない」ことを知って、並行世界を救うためにもう一度立ち上がる、という構図は本作で超鈴音が取った立場と共通する部分が多くあります。

 平行世界に渡って、その世界に影響を与えても、元の世界に直接の影響は何もない。だとしたら、超鈴音はいったいこの世界で何をしようとしていたのか。それを考えることはネギまという作品を考える上でとても重要なことだと考えています。いったい彼女は何をしようとしていたのか。

 私は、これは「シミューレション」だったのではないか、と考えています。超のアドバンテージは未来を知っている、ということです。未来を知った上で、起こるべくして起こる悲劇を回避するために方策をめぐらし行動する。それは現実の問題を解決するためにとても有効な方法です。超は、平行世界という超精密なシミュレーターを使って、それをやった。その結果として元いた世界を救う手がかりを得たからこそ、彼女は満足して帰っていったのではないか、そう思っています。

 では、シミュレーターとして利用された、超の都合に振り回された世界に対して何の責任も取らなくていいのか。それを考えると、れが最終回直前の、そして最終回で暗示された超のとった行動の意味が見えてきます。彼女は、彼女が関わった全ての世界を、現実に存在するものとして関わり続けているんですね。

 これは、平行世界というSF的な設定の上のお話ですが、これに類似した構造は実はネギまという作品の各所に散りばめられています。現実世界と同時並行して存在する魔法世界というのがまずそれですね。本来、自分たちとは関わりのない別世界を否定せず、それに積極的に関わっていくことを肯定する、それぞれの世界にそれぞれの人の数だけ物語が存在する、それを想像してもらうこと。それこそが「ネギま」という作品の根幹的なテーマなのではないか、そう考えています。

メタ視点から見た「ネギま

 それは、ネギまという作品をメタ的な視点から見た時、一層強く浮き彫りになります。赤松先生自身のメディアミックスに関わっていく姿勢、二次創作を自ら楽しむ姿勢そのものが、ネギまという作品のあり方と重なって見えるんですね。

 最終回を読んで、読者に丸投げしたかのような曖昧な結末、と感じた人も多いのではないかと思うのですが、実のところよくよく読み込むとそのほとんどはほとんど解釈のぶれない範囲で読み取る事のできるっ物だったりします。しかし、それはあくまで最終回で提示されたこの世界での話であって、ほんのちょっとしたきっかけでまったく違う未来を迎える別の「ネギま!」世界の存在を許容している、ということでもあります。アニメ、ドラマ、映画、あるいは公式二次創作やファンによる二次創作。それらを全部「本当にあったこと」にした上で、赤松先生自身が考える理想の未来像を提示したとても感慨深い最終回だったと、私は思っています。

キャラクターとともに歳を重ねていく

 もうひとつ重要なのは、こうした平行世界は、同じ時間を何度も繰り返す閉じたループ構造を想起させがちなのですが、ネギまにおけるそれは閉じることなく未来へとつながっている、ということです。それを象徴するのが、最終回直前に7年の歳月を重ねたキャラクターたちですね。

 最終回直前、何故7年の月日を重ねたのか。これは、作中本編で描かれた2年間と併せて9年、つまり連載期間の9年と併せているんです。連載当初から読み始めた読者と同じ数だけ、作中のキャラクターたちも歳を重ねていく。それは、これから10年先20年先も同様に歳を重ね、それぞれの人生を想像させるに足る描きです。

 作中でくり返し語られる「わずかな勇気」というキーワード。知らない世界へ飛び込む勇気。変わっていくことを受け入れる勇気。そして世界と他者を想像する力。それを余すことなく描ききった稀代の傑作でした。

 赤松先生、9年間本当にお疲れ様でした。そしてこれからもまた、彼ら彼女らを末永く愛してあげてください。いち読者として、彼ら彼女らと同じ時を過ごせることを感謝しつつ。


上杉隆氏の華麗なる弁論テクニック

 以前より注目を集めていた町山智浩氏と上杉隆氏の公開討論「ニコ生×BLOGOS番外編「3.14頂上決戦 上杉隆 VS 町山智浩 徹底討論」 - ニコニコ生放送」がとても面白かった。上杉隆氏については今までTwitterでの断片的な発言や彼の周辺をめぐる言説を見て、単純に不誠実な人だなという印象しかなかったのだが、生で彼の弁論術を見て、なるほどこれは一種の才能であると敬服せざるを得なかった。なかなか貴重な体験だったので、せっかくだから彼の弁論術について私が感じいった部分を少し要約してみたいと思う。

1を聞かれたら10答える

 彼の弁論術を支える基本は、その言葉数の多さである。ごくごくシンプルな質問であっても、一見無関係なディテールから描き出し、質問の核心に触れることを巧妙に避けつつ、全体としてみればその質問に対する回答として推論可能な形に落としこむ手口は鮮やかの一言。

 この戦術の効果は非常に大きく、まずながら見で見ている聴衆にはその意図を読み取ることが極めて困難であるということ。そして、その意図を理解するために非常な集中力を要するため、対論者の体力を効果的に奪う事が出来る。また細かな事実を大量に羅列することで、彼が事実に基づいて発言していること、そしてとても頭の回転の早い人間であるという印象を与えるのにも一役買っている。事実彼は相当に頭の回転の早い人物なのだろうことは間違いない。このように立板に水で言葉を紡ぐのは自らの体力の消耗も激しいはずで、そのスタミナの高さもまた特筆すべき点だろう。

自分の意見は言わず相手に要約させる

 上記戦術と並んで上杉氏の弁論術の根幹をなすのが「直接自分の意見をまとめることはせず、対論者に要約させる」ということ。前述した通り上杉氏の発言は一見無関係なディテールが膨大で聴衆がその意図を理解するのが極めて難しい。要約するよう求めても更に言葉数を増やしますます難解となっていくので対論者が上杉氏の意図を推論し、要約するしかない。その要約が正しいのかどうか意見を求めてもまた言葉数を増やし合っているのか間違っているのかわからないが全体としては合っているように思われる返答しか返ってこない。ダメージを与えているはずなのにいつまでたっても倒しきる事が出来ない。まるでドラクエで無限に増えるマドハンドを相手に戦っているようなものである。

 またここで、相手の質問の意図を正確に理解していないかもしれないというアピールをすることも欠かさない。私も間違える、だからあなたも間違えるかもしれない。そう印象付けることで退路を確保するのもその場しのぎではない、長期的な戦略を感じさせ恐れ入らざるを得ない。

過去の発言の矛盾は要約者のミス

 上記の相手に要約させるという戦術は過去の矛盾を指摘された時にその効力を最大限に発揮する。特に文字原稿に要約する際は上杉氏の膨大な言葉の中から文意が伝わるようにセンテンスを構築せざるを得ない。映像ソースを持ちだしてみても上杉氏の言葉は全体を見てようやくおぼろげに意図がつかめるといったものなので、一部分を抜き出して決定的な言質を取ることが極めて難しい。

 それは相手が意図を取り違えただけである。あるいはひょっとしたら意図的にそうしたのかもしれないが、というさりげないアピールも忘れない。記事製作者になんらかの悪意があったのではないかと匂わせることで自身を被害者であるように印象付け、自らのペルソナである「権力に立ち向かう正義の人」というスタンスをけして崩さない。なるほど「正義の人」を求める人達の熱い支持を受けるのも納得するところである。

事実は深く追求しない

 そもそもこの討論は、町山智浩氏がTwitterで「上杉隆氏がTBSラジオ キラ☆キラを降板させられたのは東電批判のためではなく官房機密費問題で失言をしたから」といった主旨の発言をし、それに対して上杉隆氏が訂正を求めたことに端を発します。

 番組途中及び事前の公開質問状町山智浩氏が上杉隆氏に謝罪をしている意図を図りかねている人も多いのではないかと思いますが、これはその後町山氏が当時の状況を整理し、改めて関係者に取材をすることで「上杉隆氏が降板させられた真の理由は失言ではなく、その後に上杉隆氏が名指しでTBSを非難する文章が週刊ポスト誌上に掲載されたからである」という新たな事実に行き当たったからなんですね。町山氏は当初のTweetの誤りを認め、新たに判明した事実を上杉氏にぶつけたわけです。

 これはさすがに決定打だろうと思ってみていたわけなのですが、上杉氏はそこで思っても見なかった奇策に打って出ます。町山氏はその事実に行き当たった根拠を番組共演者である小島慶子氏の発言に求めたわけですが上杉隆氏は「それはあくまで小島慶子さんの推測であって事実であるとは限らない。そしてその件は私にとっては重要事項でないのでもう事実を追求するつもりはない」と返したんです。必殺ブローがまさかのノーダメージ。こう返されてはもはや打つ手はありません。

 そして更に恐ろしいことに上杉氏は事ここにいたってもいまだに「TBSラジオ キラ☆キラ降板理由は東電批判のせいかもしれない」という可能性を否定していないんです。そもそも上杉氏は様々なメディアを通じて「東電批判のせいで降板させられた」といった印象を与える表現をしていますが、よくよく聞いてみるとあくまで「東電批判をしたその日に突然降板を言い渡された」という事実を述べているだけでその因果関係については直接触れていないんですね。

 町山氏が労力を重ねて検証しほぼ確実であろう事実に行きあたっても、自らは深く追求しない事で別の可能性を残し続ける。ここにまさに上杉隆氏の弁論テクニックの粋を見た思いです。おそらく彼は周囲から矛盾を指摘されても今後もこのロジックを用い続けることでしょう。


 私はジャーナリストとは「推論を元に仮説を打ちたて、その仮説を実証するために証拠を積み重ね事実を詳らかにする」科学的な職業であると考えています。その点で上杉隆氏が自らを「元ジャーナリスト」と名乗りジャーナリストの看板を降ろしていることはとても正しい態度であると認めています。彼の行なっていることは「推論を元に様々な仮説を打ちたて、それが事実であった場合に大々的に公表をする」といったもので、これは非常に伝統的なある職業の行動様式と一致します。予言者と呼ばれる人達ですね。予言者の言う言葉は常に正しく、それ故に毀誉褒貶ありながらも一定の人々から熱烈な支持を得ます。

 一見論が噛み合わず退屈な討論に見えますが、Twitterの断片的な発言からは窺い知ることの出来なかった上杉隆氏の人気の理由をはっきりと知ることが出来たこの番組は大変に面白いものでした。もっとも、もう二度と上杉隆氏の出演する番組を見たいとは思いませんが。

関連リンク
ニコ生×BLOGOS番外編「3.14頂上決戦 上杉隆 VS 町山智浩 徹底討論」 - 2012/03/14 23:00開始 - ニコニコ生放送
上杉隆氏への公開質問状 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
キラ☆キラ降板問題 - 上杉隆 wiki - アットウィキ