ジョーカーの恐怖の源泉と、それに対抗しうる力

 さて、ダークナイトです。作品全体に関する評や解説は既に優れたものがたくさんありますのであえてここでは書きません。この作品が描き出したものはあまりに巨大で、ひとつの角度から照らしてその全貌を把握することは困難です。ここに綴る考察は、私なりに“読む事の出来た”この作品の意味の、ほんの一部にすぎません。それは、人によってはそんな話は受け入れられないと思うかも知れません。ただ、こうゆう視点でこの作品を読んだ人間がいる、そう読むことも出来る、そうゆうひとつのサンプルだと思ってもらえれば幸いです。

理由なき狂気の系譜

 ジョーカーの恐怖、それはその狂気に、その暴力に、そこに至るに足る人間的な動機、理由が根本的に欠如していることだということは既に多くの人によって指摘されている。それは、作中で語られる“ジョーカーがジョーカーになった理由”が、場面場面でまるでデタラメでバラバラな話を吹聴していることなどによっても明らかであるが、ジョーカーのなす悪には動機がない。ジョーカーという怪人は、何者かへの怒りや執着から悪に落ちたわけでは決してなく、ただただ人々を恐怖と混乱に陥れることに喜びを感じ、その喜びの為なら自らの命すらも平気で危険にさらすという、常人には理解不能な行動原理に従って動いている、ということだ。

 こういった常人に理解不能な純粋な狂気、理由なき悪意を持ったキャラクターというのは、必ずしも新しい訳ではない。古くは「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクター教授。まるで呼吸をするかのように殺し、食らい、そこに一切の罪悪感や人間的な情を持たない。人々がタブーとすることを踏み越えることに一切の躊躇がない。あるいは「劇場版パトレイバー」の帆場瑛一。東京を壊滅させたいというその巨大な破壊衝動の根源的な理由が一切明かされないまま、ただ冷徹に計画は実行される。そしてその本人は結末を見届けることすらせず、舞台から消え去ってしまう。その理由なき狂気は、ダークナイトにおけるジョーカーのそれと、同質のものだ。

 すなわち、正しいのは私だ。私はただ人間本来の欲望に素直に従っているだけだ。狂っているのは世の中のほうだ。と。

禁忌を犯すことを恐れない存在

 こういったキャラクターの恐ろしいところは、彼らが、我々が常識として拠り所にしていること、禁忌として近寄ることを避けている事柄に、何の躊躇もなく踏み込んでくることだ。作中でジョーカーがそのもののセリフを発するのだが、我々はそれが必然の範囲であればそれがどんなに悲惨な出来事であっても、平気で受け入れる事が出来る。しかしひとたび事が我々の常識から外れると、ほんの些細な事であっても恐怖と混乱の渦に巻き込まれてしまう。彼らは、それを巧みに突いてくる。

 それでも、その狂気の対象が個人に向かっていたレクター教授は、まだ我々の社会と共存可能な存在として受け入れる事が出来た。コンピュータ化された社会インフラという意思なき力を操り目的なき悪意を世界に突きつけた帆場瑛一の狂気も、それがあまりにも無指向であったがゆえに、自然災害としてそれがを捉えることに立ち向かうことができた。しかし、ジョーカーが我々の世界に突きつけた狂気は、それらに比してもなお我々に強い恐怖と嫌悪を呼び起こす。それは、ジョーカーの指向する狂気が、人の自由意思を否定し、奪いさることにあるからだ。

ジョーカーの犯した禁忌

 ジョーカーの犯した禁忌の中で、私がもっとも戦慄したのは、それはジョーカーが自らの狂気の計画を実行するにあたって、その手足として知的障害者を利用していることである。これが何故恐ろしいのか。それは「ジョーカーのような凶人の言をまともに受け入れるものなどいるわけがない」という常識の思い込みの虚を突いてくるからである。ジョーカーはその人間観察力と巧みな話術で、人の心を操ってくる。ましてや自律意思の弱い障害者をいいように操ることなど、彼にとっては造作もないことだ。そのことが、ジョーカーが巻き起こす狂騒に、絶大な説得力を生んでしまっている。誰がジョーカーに操られているかわからない。そしてジョーカーは恐怖によって思考力を失ったものを、あるいは家族への愛情によって思考力を失ったものを、またあるいは正義感や怒りによって思考力を失ったものを、巧みに誘導し、次々と罠に掛ける。世界はジョーカーの思うがままに操られていく…1度広まった恐怖と不信は留まる事を知らず街全体に感染していく…。

 言うまでもないことだが、この映画はこういった意思の弱い人々を弾劾せよと言っているわけではない。人が、ふとしたきっかけで簡単に正体をなくし、自らの意思ではなく何者かの言葉に盲目的に簡単に従ってしまう存在であるという、ごく当たり前の事実を所与のものとして、受け入れるべきだと言っているんです。人は、それが必然の出来事であれば、動じる事なくその事実を受け入れる事が出来る。ジョーカーの言葉は、それはそのまま人が人がましくあるためにはどうすればよいかと言うことも同時に指し示している。人の心が弱々しいものであること、自由意思などというものが幻想に過ぎないことを受け入れる事、それだけがジョーカーの恐怖に立ち向かう唯一の方法だと。

奇跡は何故起こったのか

 この映画のクライマックスで、ジョーカーが仕掛けた罠は、バットマンの手によってでも、ハーヴィ・デントの手によってでも、ゴードン警部の手によってでもなく、失敗に終わる。それは、何の理由もない、ただの偶然の奇跡に過ぎない。千々に揺れ動く人々の心の中で、ほんの少しボタンの掛け違えがあっただけでそのままジョーカーの望む惨劇が起こっていた。たまたまそれを手にした人が、自らの弱さを克服し、あるいは逆に弱さゆえに選択を拒んだ、ただそれだけの事だ。それはジョーカーに誤算があったという事でもあり、そしてジョーカーのその力は決して全能の悪魔のそれではない、ただ一人の人間の力でしかないと言うことでもある。人の心は表しか出ないコインではない。表が出る時もあれば、裏が出ることもある。それを完全に操りきることなど神ならぬ人の身では、それは不可能なんです。であるならば、それがどちらかわからない時は、そうであって欲しいと願う側面が出ることを、ただ祈るしかない。もちろん、祈って、結果裏切られる事もある。それでもただ祈る。相手も同じように、人の心の表の面が出ることを祈っていると信じて。あの場面でただの人が出来ることがあるとしたら、それだけなんだと。

 それが、それだけがこの映画の指し示した希望だ。そしてこの映画を観た我々は、それより以前よりもほんの少しだけ、それを信じる力を手に入れている。

 何事かあった時、あの時あの場面で“そうあって欲しいと祈ったその心”を思い出して欲しい。あの時、我々は確かにその惨劇が回避される事を強く強く、祈った。

 それが、すなわち、自由意思ではない、人間の尊厳としての“意志”の力だ。

何度裏切られても、何度傷つけられてもそれを信じること。それはとてつもなく困難だ。しかし、それだけがジョーカーの力に対抗しうる。それを忘れないでいたい。