序論:ゲームとは何か コスティキャンのゲーム論を越えて

 近年、特にDSのムーブメント以来、ゲームであるのにゲームっぽくない、あるいは従来ゲームと思われていなかったのにゲームとして受容されているそういたったソフトウェア群が増えています。例えばどこでもいっしょ脳トレWiiFit、あるいは選択肢のないノベルゲームなど、それがゲームなのかどうかを判別しないまま、受容している。確かに非ゲームやシリアスゲームという呼称はあり、それらは印象論的に使い分けられているが、それらが娯楽として同一平面上にある(=それらはすべてゲームとして感受されている)んですね。

 そもそもゲームとは、ゲーム性とは何か。ゲームに対する定義としてもっとも有名なものとしてはグレッグ・コスティキャンによるゲーム論があります。

コスティキャンのゲーム論

ゲームと意思決定

 ここでコスティキャンは、ゲームとは【意思決定】であると断じています。意思決定とは、ある状況において複数の代替案の中から最適解を求めようとする行為。複数の選択肢の中から、これが最善であろうと自らが思う選択をする事、ですね。ここで重要なのは、その選択が本当に最善であるかどうかは重要ではないと言う事です。なんらかの根拠に基づいてそれが最善であろうと自ら意思さえすれば、それは意思決定なんですね。意思決定でない行動とは何かと考えると逆にわかりやすいかもしれません。状況に対して意思を介さずに反射的に行動を起こす―すなわち条件反射―ではない行為が、意思決定であると言って良いと思います。

 しかしこれは、娯楽としてのゲームの定義としては少し不十分に思えます。そこでコスティキャンは【目標】【資源管理】【障害】【情報】といった要素を導入するのですが、この論の展開には私は違和感がある。こういった「意思決定のための判断材料」は娯楽ではない意思決定、例えば経済学におけるゲーム理論などにも普通に当てはまるもので、それらはゲームを「奥深く」はしても、「面白く」するとは限らないんですよね。

 またコスティキャンはこの論の中でシムシティなどのいくつかのタイトルをゲーム的ではないと断じていますが、今日的な視点から見てシムシティをゲームではないと捉える人は少数派でしょう。これは今のゲーム非ゲーム論争の境界線がスライドした話でしかない。そもそも、シムシティやシムアースに意思決定がないと考えること自体に無理がある。娯楽としてのゲームと、そうでないものを切り分ける要素はほかにあると考えたほうが自然に思えます。

カイヨワの遊びの概念と娯楽の核

 そこで、娯楽としてのゲームにはすべからくカイヨワの遊びの概念に還元できるような【娯楽の核】を備えているのではないかという説を提唱したい。すなわち、意思決定とは無関係にそれに戯れるだけで快感を感じるもの。そういったものを備えているか否かが、娯楽としてのゲームとそれ以外を切り分けるのではないか。いわゆるシリアスゲームと呼ばれる一群は、それが無い、あるいは見えにくいものの事を指すとも言えそうです。

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 注意したいのは、【娯楽の核】そのものはゲームではない、ということ。【娯楽の核】と【意思決定】が揃って、そこにゲームが生まれる。例えばサッカー(コンピューターゲームではなく、スポーツとしての)を想像してみると、サッカーボールを足で蹴るという行為そのものを楽しいと感じる。それが【娯楽の核】です。しかしそれだけでは娯楽としては長続きしない。そこに何らかの課題―例えば、ゴールポストにボールを蹴り込む―を持ち込んだ時、はじめて【ゲーム】が立ち上る。そこでボールをゴールに蹴り込むという意思を持つ事によって、失敗と成功という結果が認識される。それが、根源的な意味での【ゲーム】なのではないか、と。

全体最適解と不確定性

 しかしまだ問題が残っている。例え意思をもってボールをゴールに蹴り込んだとしても、それが意思した瞬間に100%成功が確定している場合はゲームが成立しないんですね。ボールを蹴る事を覚えたての子供にとってはボールをゴールに蹴り込む事はゲームになるが、プロのサッカー選手にとっては、無人のゴールにボールを蹴り込む事はゲームとはいえないんです。不確定があるからこそ、人はそこにゲームを感じる。意思に対して最適解が自動的に導き出されてしまう場合はそれはゲームではないんですね。

なぜゲームは娯楽をより魅力的にするのか

 遊びというのは、基本的にただそれだけで楽しい。ならばなぜそこにゲームを導入する必要があるのか。それは、遊びがもたらす快感というものがそれ単体では繰り返される事で消尽してしまうからなんですね。そこで遊びに意思決定―ある状況下における最適解の追求―を持ち込む事で、最適解が導き出されるまでの間何度も何度も遊びのもたらす快感を享受する事が出来る。

 例えば脳トレの場合、単純な計算問題を解くという行為そのものが娯楽なんですね。ただしそれだけではゲームにならないので50問(100問)を出来るだけ短時間で解くという課題を持ち込む事によって、ゲームが発生するんですね。そこではコンディションや自らの能力限界に対する誤謬といったものが不確定要素となる。今日のコンディションならこれくらいの結果が出るはずだ、今の自分ならこれくらいの数字が出るはずだという意思が、そこにゲームを生むんです。

 一方で脳トレをゲームであると認識しない人はそもそも単純な計算問題を解く事に娯楽性を感じない人と、自らの能力限界を自明なものとして認識している人の二種類がいるんですね。前者はそもそも娯楽の核を認識しない。後者は現れた結果に対して不確定性を感じない。そうゆう人の割合が比較的多いために、脳トレは非ゲームとして分類されがちなんですね。

 これは脳トレに限らずあらゆるゲームについても当てはまって、それをゲームと呼ぶかどうかは行為主体それぞれの遊びの定義と最適解の認識によって違ってくるんですね。最初は面白く遊んでいたのに、途中からだんだん飽きてきてついには投げ出してしまう。これは行為者がそのゲームの全体最適解を見切ったと認識(実際にそれが本当に最適解であるかどうかは問題ではない)することによって起こるんです。あるいは自己能力を鑑みてそれが解く事が出来ないことが自明に思えた時、それはゲームではなくなってしまうんです。

良くできたゲームとは何か

 ここにきてようやく良くできたゲームとは何かという問題を論ずる事が出来る。すなわち優れたゲームとは、多くの人が共感できる【娯楽の核】を持ち、それを繰り返し享受するための【適切な大きさの課題】を持続的に供給できるものである、と。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 適切な大きさの問題さえ生まれれば。

 この定義を援用する事で、世の中でゲームと呼ばれるもの全て…コンピュータゲームに限らずスポーツやライフハック、あるいはニコニコ動画のようなウェブサービスといったものまで含めて、ゲームとして同一地平線上で語る事ができるのではないかと考えています。


 例えば選択肢の一切存在しないノベルゲーム、そういったものもゲームとして評価可能なのではないか。ノベルゲームの一群は、それがゲームのようなインターフェイスを備えているからゲームと呼ばれるのではなく、確かに娯楽の核と意思決定の要素を備えているのではないか、と。それについてはまたおいおい記述していく予定です。今回はここまで。