初音ミクという神話のおわり

何故初音ミクよりも作者に注目が集まるようになったか。2008-12-06 - カナンを夢見ながら

id:beentocanaanさんは、かなり初期からVocaloidブームを追いかけておられる方で、私もよく拝見させていただいてるんですが、この記事は自分の実感とはずいぶん違うなあ、などと思ったので、少し昔を思い出しながら書いてみようと思います。

オモチャとしてはじまった初音ミクブーム

 そもそもニコニコ動画におけるVOLALOIDのムーブメントというのは、実は初音ミク誕生以前から始まってるんですよね。シーンの中心にいたのは、第1世代VOCALOIDMEIKO。そのなんとも言えない合成音声の味わい深さで、既存のMADやプレイ動画の味付けとして、今のゆっくりブームに近い形で親しまれていたんですよね。といっても私はまだこのころは本格的にニコニコ動画にはまっていなかったので、多少憶測含みではありますが。

 そんな中でMEIKOを使ってカバー曲を多数アップしていたワンカップPが、VOCALOIDの新作初音ミクamazonで注文したのに届かないという動画を投稿。それに呼応して不在通知Pがネタ動画をアップするという応酬で盛り上がっていた。これが初音ミクのブームの端緒なんです。もともとネタにするためのオモチャとして始まったんですね。この時から既に視聴者は、動画投稿者が誰かということを強く意識していたし、投稿側も実際はっきりと記名してるんですよね。

歌姫の誕生

 そのニコニコ動画でよくある光景から変化していったのが、この動画でした。

 先日「みくのかんづめ」がメジャー流通を果たしたOSTER projectの記念すべきニコニコ動画投稿第一作。この曲をはじめて聞いた時の驚きというか、感動というか、ともかく言葉にならない衝動を感じたのを覚えています。人工音声が、自らの存在に自己言及するというオリジナル曲。まず、オリジナル曲であるという点と、そのクオリティがいきなりずば抜けていた事。そして歌われている歌詞の内容が、どこにもいない初音ミクという架空の女の子が自らについて語るという内容。歌姫初音ミクはこの瞬間誕生した。そう言っても過言ではない。

 今にしてみれば、この、誰でもない、どこにもいないという性質が、初音ミクの特異性だったんだと思う。作り手であるクリプトンも、イラストを手がけたKEI氏も、初音ミクが何者なのかを知らない。初音ミクとはいったい何なのかというのは、ミクマスターたちの手を通してミク自身の声で歌われる歌の中から読み取るしかない。そうゆう状況の中で、まるで天から降ってくるミクの言葉を代わりに我々に伝えてくれるかのように、初音ミクによる自己言及的なオリジナルソングが次々と発表されていった。それは、あの当時夢中になってそれらの曲を聴き漁っていた人にしか分からない感慨かもしれない。あの時、あの瞬間、初音ミクは間違いなくモニターの向こう側に、歌声の向こう側に存在した。そうゆう共同幻想の中で初音ミクのブームはものすごい勢いで巨大化していったんですね。

歌姫を殺したのは誰か

 その共同幻想は、ある日突然終焉する。それが終わっていたということに気付くのは、ずっと後になってのことではあるが、歌姫初音ミクという女神は、あの日、死んだんだと思う。メルトの登場だった。

 今や押しも押されぬニコニコ動画の代表的な動画であり、VOCALOID曲の象徴とも言える、世紀の名曲である。ただし、これを歌っているのは“初音ミク”ではない。歌われているそれは、ミクの歌ではない。誰もがそれを直感し、その違和感ゆえに当時ものすごい反発と、また同時に礼賛の声が巻き起こり、あっという間に多数のニコニコの歌い手にカバーされ、初音ミクブームは新たな局面を迎える事になる。その勢い故に、何かが決定的に変わった事に気づく事はできなかったのだが。この曲の大ヒット以降、歌姫初音ミクという存在は急速にリアリティを失っていった。あくまでVOCALOIDは使い手がそのメッセージを楽曲にこめる為のツールだという、当たり前の認識が広まっていったんだと思う。もはやモニタの向こう側にいるのは初音ミクではなく、それを使う使い手であることを、誰もが気づいてしまった。

 神話の時代が終わった、そうゆうことなんだと思う。ツールとして生まれたVOCALOIDが、一時の奇跡の時間を終え、再び人の手に帰って行った。そうゆうことなんだと。まさにタイムリミットが来てしまったわけだ。それ以降ミクは、オモチャとして遊び倒す人たち、キャラクターとして愛でる人たち、仮歌ツールとして用いる人たちといった、個人個人が本来の機能に立ち戻って利用されていく。そこで主体になっていくのは当然作り手たちだ。

初音ミクの死と別れ

 そんな中でも特別な存在として、初音ミクが自分自身について言及している、特別な曲がある。ただし、そこで歌われるのは初音ミクとの、別れと、死だ。

 もはやマテリアルを失った初音ミクが歌う事が出来る主題は、それしかなかったとも言える。あまりに早すぎる葬送。遠い世界からのミクの別れの言葉。あのひとときの奇跡を体験したものにとっては、この曲のもつ特別な意味はあまりにも重い。ただの偶然といってしまえばそれまでだが、サイハテが投稿されたのは、メルト投稿より40日後の事だった。

 今日はメルト投稿から1周年だったらしい。ある意味では歌姫・初音ミクの、一周忌だったとも言えるかもしれない。繰り返すが、もともと、初音ミクは、VOCALOIDは、ただのツールだった。元々、作り手こそが注目されて当たり前であって、あの約3ヶ月の共同幻想こそが、特別の奇跡だったんだと、今にしてそんな風に思えます。

追記 歌姫が残したもの

 こうゆう書き方をすると、初音ミクのムーブメント自体が、メルトで終わったように誤読されてしまうかもしれません。そうではなくて、神懸かり、神語りだったミクという像が失われることで、それに引っ張られていた才能が、本来あるべき場所へと還っていった、神話の時代から人間の時代へと移行した、ということなんですね。このフレーズを入れるのを忘れてました。

 ブックマークコメントでも指摘されていますが、歌姫としての像が肥大化していく中でも元々ツールとして初音ミクを使いこなしていた人たちはたくさんいましたし、メルト以降も、才能という点ではそれ以前以上にたくさんの音楽的才能が初音ミクを媒介にして世界へと飛び出していった。またニコニコ的なネタツールとしては、MikuMikuDanceを中心に初音ミクという存在自体を自在にオモチャにする人たちも多数現れ、またキャラクターとしてのミクたちVOCALOIDファミリーの魅力も、シンPのうろたんだーをきっかけにして確立された手法によって、今もずっと豊かに育っています。

 それではあの時のあの共同幻想は何の意味もなかったのか、というと、もちろんそうは思いません。あれは、きっかけ、徴(しるし)だったんだと思っています。音楽を通して人と人が繋がりあっていける。新しい何かを産み出していく事が出来る。その可能性を想像させるシンボルとして、今も初音ミクという像は、遠くに霞むようにして残っている。もう誰の手の届かないところへ行ってしまったけれども、それが残した豊饒の地は今もここにある。そう思っています。

みくのかんづめ