ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、と彼は言った

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081210/1228904816

 こちらを読んで。id:aurelianoさんとは一回ずつトラックバックを送りあった程度の縁ですが、同じような時期にブログをはじめたこと、年代的な近さ、常にエンターテイメントを意識する姿勢等、少なからずシンパシーを感じる部分があったりもします。しかしこの記事はちょっと、うーん、と唸ってしまった。これは、ネタなんだろうか、マジなんだろうか、と。

その記事は誰に届けたいのか

 ブログでも何でも、表現というのは自分が誰かに伝えたいことを、文字や絵に落とし込んで、枝葉を切りそろえる必要があります。多くの情報を切り落とせばメッセージはシンプルにわかりやすくなり、届くべき人のところにちゃんと届く代わりに、意図しない解釈をされてしまう可能性が高くなる。かといって誤解のないよう念入りに定義付けをして書き進めると、難解になって、何より書いていても読んでいても楽しくないものになってしまう。それをどこでバランスを取るかというのは、とても難しい。

 だから自分の場合は、いつも文章を書くとき、これを誰に伝えたいのか、それを出来る限りはっきりとイメージして書く。それ以外の人には誤解をされても仕方が無い、とにかく伝えたい人に確実に届くことだけを一番に考えて書いています。なので思いがけず注目を集めてしまったときは、意図しない解釈をされてしまうこともありますが、それは仕方がないんです。むしろ、本来届くはずの無かった人のところにまで届いたことを、ポジティブに捉えたい。

ブックマークひとつひとつにも背景がある

 そもそもとして、ブックマークにしてもアクセス数にしても、一定以上の閾値を越えると、本当に誰が見ているのかさっぱりわからない、何か100ブクマとか1万アクセスとか得体の知れない統合意思がそこにあって、一斉に同じ視線を自分に振り向けているような、そんな強迫観念を抱いてしまうことも、少なくないのではないかと思います。ひょんなきっかけで注目を集めたブログが、プレッシャーに耐えかねて閉鎖してしまう、そうゆう悲しい出来事というのは、いつでもあり得る。だけど、そこにあるアクセスやブックマークは、善意にしろ悪意にしろ、それぞれ一つ一つが、それぞれに価値判断に基づいて行動しているということも、忘れてはいけないと思う。

 特にはてなブックマークの場合、何か嬉しくない、あるいは明らかに誤解に基づいたコメントがあったとしても、その人がどういった価値判断に基づいてそのコメントを残したのかは、その人の他のブックマークを見ることで、私たちはそれを知ることが出来る。そこには、一見して自分には対話不可能な人物なんだと思うこともあれば、自分が見落としていた重要な視点を含んだ意見だったことに気付かされることもある。そうやって自分の視点、視野が広がっていくのは楽しいし、そうやって視野を広げたいからこそ、特定の誰かに向かってのメール等ではなく、ブログという媒体を使って誰にでも見れる形で文章を書いている、とも言える。

 人間、好不調の波はあるし、心が疲れているときに攻撃的な言葉を受け取るとどうしてもネガティブな心象に落ち込んでいくことはあります。何でもかんでも悪意のあるコメントに対して寛容になれ、とも思いません。だから自分の場合、一見して対話が不可能であると感じた場合(本当は対話が可能だったとしても)それは仕方がないと諦めます。その場では。


 自分にとってブログは、伝えたいことを伝えたい人に伝えるためのツールです。そして伝えたいことを伝えたい人に伝える力を鍛える修練の場でもあると思っています。ブログがクローズドな日記と違うのは、そうゆう、高めあっていける構造を本質的に有していることなんじゃないかな、と。

 だから私はコメント欄は閉じませんし、そこで通じ合うことのできなかった人への返信は別のエントリでしてみせる、そうしたいといつも思っています。ごくまれにでもそれで通じた、そうゆうときがあったときの喜びは、何にも変えがたいものがあったりしますしね。

 誰もがそんな風に強くあれ。とも思いませんが、少なくともエンタメを志す、ただ自分の内面をさらけ出すだけでなく、誰かを喜ばせたいという気持ちがあるならば、こんな考え方をしてみるのも、ひとつのあり方なんじゃないかな。などと思います。