誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う

 DJテクノウチさん、濱野智史さんらが参加したユリイカ初音ミク特集号での座談会をきっかけに面白い議論が立ち上がってますね。

超ライトオタクの誕生 - あしもとに水色宇宙
超ライトオタクは誕生していない。ぬるオタが歴史から抹消されている
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html

オタク側から見た光景と、クラバー側から見た光景。

 一連の流れを追っていて思ったのが、どうもこれは観測者の立ち位置によって全く違う光景に見えているようだ、ということですね。

「ニコ動によって、オタク文化をファッションとして消費しているライトなオタク」が出現しているなんていう言説はかなり前から存在していて、今更な感じがあるけど、こんなクラブ系イベントがあると聞くとちょっと衝撃を受ける。アキバ系の音楽を鳴らすイベントは昔からあったと思うけど、クラブカルチャーの中でそういうイベントがあるっていうのが驚きだった。僕のイメージではオタクとクラブなんて両極端に存在しているものだという感じだったけど、現実にはそうじゃないらしい。今や、オタクとは程遠かったガチでオサレな人達がオタク(?)になっているっぽい。オサレな人達や無遠だった人達がニコ動によってオタク文化接触して、ハマっていっているのかな。僕の実感としては、本格的にオタクがライト化というか、オタクじゃなかったオサレな人達がいっぱいオタク文化に参入して来ているんだなと本当に思うようになってきた。
超ライトオタクの誕生 - あしもとに水色宇宙

 この文章にあるように、id:tokigawaさんはオタクじゃなかった人たちがオタク文化に参入してきたと感じている。

その一方でこれはテクノウチさんの1年前の記述なのですが、

異常事態なのはJ-COREがクラブカルチャー→同人カルチャーという文化ごと転換しようとしていることです。文化・市場が転換している。つまりリスナー自体が変わっているんです。これは劇的な変化です。私が冒頭で「元からシーンにいた人にとってはハードコアテクノが終わった年、今シーンにいる人にとってはハードコアテクノが激変した年」と述べたのはこういうことです。最終的なリスナーはかなり異なった人々でしょう。文化・市場が変わるということはリスナーが変わるということです。

これはもうサウンド面が流行の流れに沿って変化していくなんてものではない、根底からの変化です。「ガバというシーンがハードハウスのシーンと融合してハードスタイルというシーンになってしまったからついていけなくなった」というのと「ハードコアというシーンが同人というシーンと融合してJ- COREというシーンになってしまったからついていけなくなった」では全然意味が違うのです。

NU STYLE GABBA→HARDSTYLEへの変化は文化としての変化が少なく、基本的にはサウンド面の変化です。しかしながらHARDCORE→J-COREは音自体の変化が少ないのに、文化が激変しています。上で鳴っている音は同じなのに、下で聞いている人は総入れ替え、極端に言うとJ-COREの今の変化はそういうことだと思っています。
http://www.technorch.com/archives/2007/12/j-core_.html

 ハードコアテクノの文化圏に今までとはまったく違うリスナーが大量流入してきていると指摘してるんですよね。これは明らかに相互補完的な関係で、今まで断絶していた文化圏の境界線が緩くなって、相互に乗り入れが始まっている、あるいは最初からそこに境界線があったことを意識しない人が増えているんでしょう。

「語られない」ヤンキー文化の中のアニメ・マンガの影響

 それに対してこういった文化的な横断現象は別に今に始まったことではないという指摘があります。それは全くその通りなんですよね。

 まず、オタク文化をライトに消費する「オサレ」な層がいきなり現れたかというのは間違っている。急に出現したかのように感じるのは錯覚だ。

 このように横断的に消費していく層というのはずっと以前からいる。急に出現したかのように感じるのはやっとそのような層の声がインターネットなどによってオタクにも届くようになっただけであり、または可視化しただけだ。これは「オタクはやめることができない」という勘違いにも言えることだが、今までオタクの歴史を紡いできたのがガチなオタクだけだったために、ライトに見える横断的な層というのが無視されてきたのだ。それによって近年、急に現れたかのように見える。だけど、ずっとずっと前からいたのだ。
超ライトオタクは誕生していない。ぬるオタが歴史から抹消されている

 テクノやクラブミュージックに限らず、アニメ・漫画・ゲーム系の文化がものすごく幅広い層に影響を与えているのは間違いなくって。いわゆるオサレなサブカル系文化とアニメ・マンガ等の影響の例は枚挙に暇がないですし、もっと土着的なヤンキー文化圏にしてもそうなんですよね。

 例えば80年代に描かれたたがみよしひさの「軽井沢シンドローム」なんかを見てもオタク的趣味(この当時はまだオタクという言葉すらなかったが)とヤンキー文化が共存していたのがわかるし、マンガ文化の中でヤンキーマンガというのはいまも巨大な勢力として屹立している。だけどいわゆるオタク語りの中ではこういったものはほとんど存在しないもののように扱われているんですよね。元エントリでも指摘されているように、「語る」人間が圧倒的に少なすぎる。

「語るオタク」と「語らないオタク」との断絶

 同じものを受容しながら、語る人間と語らない人間がいる。そもそも、この「語る」という行為を積極的に行う人間が、オタクという種族のベースを作っていった。当たり前の話ですが、語られなければ外部から観測ができないんですよね。だからアニメ・マンガ文化圏の影響の範囲が、「語るオタク」の観測範囲内のものに限定されて、それのみが「オタク的趣味」として世間に認知されてきたという歴史的経緯があるようにも思う。

 それでですね。こういった「語るオタク」というのは、語らないで受容するだけの人たちを一段低く見るというか馬鹿にしているというか、そういった風潮があった。座談会の中でも東浩紀さんが「焼畑農業」という言葉を用いていたりするのですが、創作物に対してその意味を斟酌せずにただ大量に浴びるように享受して食い尽くしたら別の場所へ移動して同じことを繰り返す…そうゆう連中とは自分たちは違うんだぜ、ちゃんと文化として語ってるんだぜといった、一種のエリーティズムのようなもので壁を作っていた。語らなければオタクに在らず。そういった自己規定によって、オタクとそれ以外を切り分けていた。

 こういった「内と外」の意識というのは確実にあった。いや、今もあるのだとは思う。

 だからクラブミュージックシーンのようなところで、語る人が不在なまま新しいことが次々に起こっていても、何が起きているのかまるでわからないし、今こうしてユリイカみたいな影響力のある雑誌で語られるとまるでつい最近になってそういったものが誕生してきたような錯覚を受けるのかなと。

ニコニコ動画という文化の交差点

 それで、ニコ動のコメント弾幕がクラブイベントで言うところのアオリと合致していて、「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」の「あんああんあん〜」*1というフレーズがぴったり弾幕と一致したときに、ニコ動が仮想ダンスフロアになったんです。それが特にクラブには行かないけど、クラブノリは味わいたいというオタクの人たちに受けた。


 ユリイカの座談会でテクノウチさんがこういった発言をしているのが大変に興味深くて、これはオタク文化とクラブ文化の両方にどっぷり属しているテクノウチさんの観測としてはとても納得がいくのですが、そもそもクラブに興味がないオタクには「クラブノリは味わいたい」という欲求自体が元々存在していなかったんですよね。しかし、それにも関わらずニコニコの弾幕は、気持ちがいい。今まで斜に構えて馬鹿にしていたものが、実はとても気持ちがいいものだということに初めて気がつかされた。それくらい言っても良いように思うんですね。何かわからない。けれどもこれは間違いなく面白いものだ。であればこれを語らなければならない。なぜなら語ることがオタクのアイデンティティなのだから。そうして弾幕文化を語ろうとしたときに、オタクがクラブ文化圏と接触する必然性が生まれてきた。

 私自身コテコテの「語るオタク」で、この歳になるまで自分がクラブ文化圏の人たちと何か関わりを持つような可能性というのはまるで想像すらしていなかった。そこに興味が行くなんて考えもしなかった。だけどニコニコ動画初音ミクやとかちゴールドなどを嗜み、その背景にある同人音楽やクラブミュージックというものの存在を知り、そういった現場に参加したいとすら思っている。そして実際に飛び込んで行っている人たちが大量に発生している。旧来的な語るしか能がなかったオタクが、別の文化圏へと越境をはじめている。そしておそらくは逆の現象、「語らないオタク」がネットという表現の場を得て語りはじめるといったことも同時に起きているんだと思う。

 この文化越境を触媒したのが、ニコニコ動画という場なのは間違いない。文化の交差点としてそこに行けば違う種族の人たちと一体化して溶け合う名状しがたい体験を得ることが出来る。そしてこれがとても重要なことなんだけれども、それでもやっぱり私は「語るオタク」のままなんですよね。

拡散ではなく、越境するということ

 ユリイカの座談会の中で濱野智史さんが『僕は音楽の歴史についてはまったくの無知です』と言っているのがとても象徴的でまた共感するところなんですけれども、同人音楽、クラブ文化というものの文脈を理解しようと努めても、それで聴くだけで良いよね、踊るだけで楽しいよね、とはならないで、やっぱり「語る」んです。それは「語る」ことが楽しいから。好きだから。

 それはクラブで踊ってる人たちもおそらくは同様で、語ったり歴史を知ったりするのも面白いけど、やっぱり「踊る」のが一番楽しい、そこが自分たちのホームポジションだという実感を持っているのではないかなと。今まで他文化へ接続しようと思ったらそこに肩までずっぽりと浸かりきるくらいの覚悟が必要で、それゆえにトライブ化、文化の断絶というのがあった。それがニコニコ動画という場を通すことでいとも簡単に越境できる。こんなに近くにいたんだということを改めて知ることが出来る。それが本当に面白くて面白くて仕方がない。

そこから「新しい」何かは生まれるのか

 ところでこの座談会でもっとも重い議題として扱われていたのが「それで結局、ここから何か新しいものは生まれるのだろうか」という話なのですが、そもそも「新しい」とは何かというところから注意して扱わないといけない問題のようにも思って。

 というのも「新しい=俺の知らないもの「新しくない=既知のもの」という分類を、人は自分の感覚に即して簡単にやってしまうところがある。だから既に原住民がいる世界に対して「新大陸の発見」といったような無邪気な言葉が出てきてしまったりするわけなんだけれども、実のところ新しい、新しくないという言説にはそれ以上の意味はないとも言えるかもしれない。

 今まで100人にしか知られてなかったものが1万人に知られるようになったら、9900人にとってそれはやっぱり「新しい」ものなんです。例え100人が俺は昔から知っていたぞ、と言ったとしても。だから今ここで起こっている「場」の変化というのが、あらゆるものが文化横断的、部族横断的に伝播可能になったという状況なのだとしたら、やはりそれはとてつもなく新しい事態なんだと思う。そもそも人の一生の中で世界の全てを知ることなど到底出来るわけではない。その上でこの世界の喰らい尽くせぬほどの何かに触れて、それでいてただ表面を撫でるだけではなく、ちゃんと自分のホームポジションを持って、そこへ還元して育んで行くことができる。そうして育ったものが、また何かのきっかけで簡単に伝播していってくれる。

 座談会の中でテクノウチさんが、『駕籠真太郎さんや氏賀Y太さんのような一人一ジャンル的存在になって何とかやっていかないかと画策している』とおっしゃっているのですが、そういったことに誰でもリーチしていける。人の限られた生の中でそれ以上に素敵なことというのも思うんですね。蛸壺化して縮小再生産で消えていくのではつまらないですが、誰でも参照可能な形で、n次だろうがなんだろうがそれを引き継いでいってくれる人がいるのならば、なおさら、そう思うのです。

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*1:魔理沙弾幕だと“あんああんあん”よりも“☆鈍痛☆”だと思いますがw