オタクとそれ以外を隔てるもの
ニコニコ動画から発信されたひとつの楽曲が、全国の学校の卒業式で歌われる…。ほんの1年前には考えられなかったような出来事が現実に起きているというのはとても感慨深いですね。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20090225-OYT1T00578.htm
公式サイトによると上記記事から更に増えて全国90校以上の卒業式/卒業イベントで合唱されているそうで。ニコニコ動画、初音ミクといったシンボルをパブリックな場で用いることに屈託のない層というのが確実に拡がっているように思いますね。
一方でこんな話もあります。
なんだかんだ言ってもVocaloid文化やニコニコ文化はオタク的な文脈と寄り添ってますし、そういったものを受け入れられない場というのは当然当たり前のように存在する。これは別にVocaloidやニコニコに限った話ではなくて、ある文化が受け入れられるかどうかはそれぞれの場の空気に依存するわけで、極端な話をすれば担任も含めて全員がニコ厨なクラスだってあり得るし、アニメや漫画の話を教室ですることすら憚られるようなクラスだってある。上記のケースで言えば発言子が場の空気を読んで(反対される理由になり得る)初音ミクオリジナル曲であるという情報を伏せ、案の定それが理由でのちのち却下される羽目になったという以上の話ではないんですね。最初からオープンに議論すればまた話は別だったかもしれませんが、情報を伏せて騙まし討ちのような形になったことが余計に不信感を募らせたという側面もありそうですね。
そもそも桜ノ雨公式サイトでも初音ミク、ニコニコ動画というのを前面に押し出して紹介しているわけですから、そこを伏せて話を通そうというのはむしろレアケースですね。実際にイベントを行った学校のほとんどは、桜ノ雨の辿った文脈を知った上でそれでもなお卒業ソングに選んだと考えたほうが自然でしょう。そこにはオタク的である/なしの断絶は特に存在しないように思います。
それより気になったのはこの話に寄せられたコメントですね。
このエントリなんかが象徴的なのですが、端的に言うと「桜ノ雨はオタク的な曲じゃないのだから、ニコニコ動画/初音ミクという文脈から切り離して評価すべきなんじゃないか」という意見がどうも一定数あるみたいなんですね。
この考え方って私はすごく「つまらない」と思いますね。もうすでに存在しない、あるいは消えかかっている境界線を各人の手前勝手な思い込みでオタク的なものとそうでないものに峻別して、切り分けてしまう。もう今はそんな時代じゃないでしょう。オタク的(といわれていたようなもの)もそうでないものも混ぜこぜになって、誰もが屈託なく「面白いもの」「好きなもの」にアクセス出来る。もちろん偏見や軋轢がなくなったわけじゃないけれども、そういったものは段々弱くなっている。ニコニコ動画が象徴している文化ってそういうものなんじゃないのかな?と思うんですよね。それをわざわざ特殊な事例にひきつけて、改めて境界線を引くのって「つまらない」。そう思います。
「許容の心」を養うニコニコ動画
とはいってもニコニコ動画って何かアングラでオタクくさい印象があって、やっぱり好きにはなれない。そういう向きもやはり多いとは思います。実際、私自身Vocaloid初音ミクの登場以前はニコニコ動画に強い偏見を持っていましたし、アニメの違法アップロードの温床のような偏見はいまだに根強いですし、今現在親しまれているコンテンツも法的にはグレーゾーンなものが多いのもまた事実です。
だけど何というか、初音ミクを入り口にしてこのニコニコ動画というものに深くコミットしていく中で、ニコニコ動画を楽しんでいる人たちは、違法行為を望んでいるわけではなくて、ただ、面白いことに対して貪欲で躊躇がないだけなんだということがわかってきた。皆が皆、楽しんで、楽しませる事に夢中になってるんだと。
もちろんすべてが善意で回ってるとは言わないし、さまざまな軋轢もある。だけど作っている人も見ている人もそれぞれがお互いに楽しみ楽しませようという思いがニコニコの基本だと思うし、実際その循環によってどんどん面白いコンテンツが大量生産されているという事実の前にはすごくちっぽけで些細なことに思えてくるんですね。面白いからといって本来完全に守備範囲外の人たちがこぞってゲイポルノ男優の動画を見て大喜びしている。ニッチでマイナーな趣味嗜好を拒絶するんじゃなくて面白おかしく解釈して楽しんでしまう。そんな愛すべき馬鹿者たちがニコ厨なんです。
桜ノ雨は、ニコニコ動画を起点として初音ミクブームの後押しもあって広まっていったという事実。その事実までひっくるめて誇っていいんじゃないかと。ニコ厨が桜ノ雨を支持したのは、それがオタク臭がするからでもそうでないからでもなく、それを学校の卒業式で歌ってもらおうというプロジェクトに面白さを感じて、それに乗っかっていった結果、ニコニコとかミクとかオタクとかそんな境界線を吹っ飛ばしてパブリックな文脈で通用するまでになった。こんな面白い話はないじゃないですか。
一過性のブームに乗っかるということ
そうは言ってもその場のノリで一過性のブームに踊らされて後で恥ずかしい思いをするんじゃないかという意見もあります。でも、実際にその場で大勢の前で恥をかいたという話でなければ、若気の至りってのは大抵いい思い出話にしかならないんですよね。バカやったなー。バカだったなーという記憶は、その記憶を共有する人たちとの絆も強くする。もちろん、所属する場の空気によっては、そういったものを表に出せない、出したくないようなこともあるでしょうけれども、それはそれだけの話で、ことさら特別な話でもないですよね。人に言えない過去のひとつやふたつくらい誰しも持っているものです(笑)。それに大人になってもバカばっかりやってる人たちも少なからずいますしね(笑)。
オタクとそうでないものを隔てる境界線なんて、実はちっとも大したことはない。「楽しさ」は境界線を吹っ飛ばす。ニコニコ動画に肩までずっぽりはまってる人間の世迷言と聞き流してもらってもかまいませんが、そう考えたほうが世の中楽しいんじゃないかな。なんて思います。