動画の墓参りという文化
自動マリオシーケンサの新作をひさしぶりにランキングで見かけてうれしくなったり。ヒャダインの替え歌に併せるという意外性、疾走感、2画面等のネタの仕込み、どれをとっても納得の面白さ。これは良いなあ。
今でも、あの動画のことはときどき思い返して、跡地に足を向けることがあります。
投稿からわずか1週間で70万再生を越え、8日目に改造マリオ系動画の一斉削除によって消されてしまった組曲「ニコニコ動画」全自動マリオVer。コメント欄を見てもらえれば分かるように、削除から10ヶ月以上が過ぎた今でも毎日のように誰かが訪れ、「墓参り」というコメントを残しているんですよね。
あまり表に出る風習ではないのですが、多くの人に愛されながらもさまざまな理由で削除されざるを得なかった動画の跡地に「墓参り」するという文化が、いつのころからかニコニコ動画では根付いていたりします。本来容易に複製可能で、実際に無断での再アップロード等も行われていたりするのですが、その動画が元の動画のような盛り上がりを見せることはなく、逆にこうして既に削除されてしまった跡地に足を向ける人がいる。
お墓参りとは (オハカマイリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
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元の動画と、複製されて再アップロードされた動画の間には失われた「何か」がある。その動画がそこにあったということに何らかの不可視的な価値を見出している人が少なからずいるということなんですよね。複製技術の発達によって失われた「アウラ」がニコニコ動画という場において再び現出しているともいえます。
コメントというノイズによって宿る何か
ニコニコ動画上における複製不可能な何かとはなんだといわれればそれは当然コメントということになります。ニコニコ動画を嫌う人の中にはコメントを動画の本来価値を歪めるノイズとして忌避する人も多いのですが、実のところライブというものは様々な環境音というノイズが混入することで、その唯一性というのが保障されていたという側面もあるんじゃないんでしょうかね。
動画共有サイトは元の著作物が無限にコピーされ拡散される場の象徴のように言われたり思われたりしていますが、ニコニコ動画上において、消された動画に特別な意味が宿って元の動画の価値をコピーできずにいるという現象が起きていることはとても興味深く、また今後のデジタルコンテンツの在り方に対する光明なのかもしれないな、などということを思ったりしました。