バトルロワイヤルとしての東のエデン
“私は至極個人的な信念に基づきこの国を救うための救世主を12人、独善的に選抜することに決めた。そしてその12人をセレソンと名付け、更にそのうちの一人をサポーターに任命した。君は今日からセレソンだ。おめでとう。”
というわけで、第4話です。いよいよゲームの概要が明らかにされました。12人のプレイヤーが生き残りを賭けてゲームに挑む、東のエデンはゼロ年代を席巻したバトルロワイヤルものでもあるんですよね。ルールを軽くまとめてみましょう。
- プレイヤーは12人。主催者であるMr.outsideによって独善的に選抜される。
- セレソンは携帯に入った100億円を自由に使ってこの国(日本)を正しい方向に導く義務がある。
- 携帯の仕様履歴は他のセレソンに通知される。
- 12人のうち一人はサポーターに任命される。12人のうち誰がサポーターなのかは主催者であるMr.outsideしかしらない。
- サポーターはセレソンに相応しくない行動を取ったプレイヤーをジャッジし、排除する役割を負っている。
- 以下に該当するセレソンはサポーターによって迅速かつ確実な死が与えられる
- 任務を途中放棄し逃亡を図った場合
- 携帯を長期にわたって使用せず何の成果も得られない場合
- 与えられた100億を国益の為でなく個人の欲望のために使用し続けた場合
- 国を救うという目的が果たせぬまま残高が0になった場合
- 12人のセレソンのうち最終的に生き残れるのは最初に使命を全うした一人に限られる
- 誰かがゴールした時点で残りのセレソンは自動的に消滅する
さて。こうして眺めてみても、おや?と思うような文言がいくつか見受けられますね。このルールには語られていないルールがある、あるいは修辞的な表現を用いて曖昧にしていると考えるのが妥当でしょう。
サポーターは誰なのか
まず突っつくべきはサポーターの任命ルールですね。「サポーターが誰なのかは本人以外には分からない」ではなく「12人のうち誰がサポーターかは私しかしらない。君かもしれないし、違うかもしれない」という言い回しをしているのはミスリーディングが含まれている可能性が高い。本人すら知らずに役割を果たすというパターンも考えられなくはないですが、それにしてはサポーターに割り当てられた役割は広範に渡り、また専門性も高い。たった一人のサポーターが残り11人のセレソンを監視し厳しくジャッジすることができるとは到底考えられない。そこで注目するのは次の文言ですね。
“ちなみにサポーターとはいわゆる12番目の選手、熱狂的な応援者であり、冷酷な監視員のことだ。”
「12番目の選手」。この言い回しはサッカーのサポーターの別名ですね。いささかレトリックが過ぎる気もしますが、実体は1個人ではないにもかかわらず「サポーター(応援者)も選手の一人」という表現はごく普通に用いられます。いくつかの作中の描写も踏まえて、セレソン一人一人を1人または複数人のサポーターが支援、監視していると考えたほうが辻褄が合うのではないかなと考えています。
ペナルティの位置付け
セレソンを「この国を救う行動」に駆り立てるペナルティの位置づけにも注目したいですね。セレソンに選抜されたプレイヤーにとってこのゲームに乗る動機付けは非常に弱い。にも関わらずゲームに参加せざるを得ないのは、「死」という明確なペナルティーが呈示されているからなんですよね。死にたくないからお金の使い道を必死で考える。ここで注目したいのは直接的な「死」を謳っているのは4条件のみで、その他に関しては「排除」や「消滅」と言った間接的な表現が用いられている点ですね。セレソンが消滅すると言うこととセレソンに選抜されたプレイヤーが死ぬことは必ずしもイコールとは限らない。No4近藤は「与えられた100億を個人の欲望の為に使用し続け」「任務を放棄し逃亡を図った」為に迅速かつ確実な死を与えられましたが、No5火浦は少なくともこの4条件には当てはまらない。しかしセレソンNo5の携帯の表示は「消滅」した。私は火浦はセレソンの任から解放されただけで死んでないのではないかと思いますね。もちろんこれは現時点では予断ですが、No9滝沢がサポーターと勘繰られた理由、2話での近藤の「No5は死んでいた」という台詞等から類推するに、No9の表示も一時的に消滅していた可能性が高いのではないかな、と考えています。
どこまでが本当でどこまでが嘘なのか
こうした引っかけ、ミスリーディングはサスペンスの常道ですが、良くできたサスペンスは後から振り返ってみてなるほどと思えるようなヒントが作中のあちこちに埋め込まれているんですよね。台詞一つ一つを取ってみても、一見矛盾に満ちた発言も、その時その人物が知り得た情報を元にした誤解によって発せられているといった演出がされている可能性が高い。火浦や近藤の台詞が、どの情報を元に発せられたものなのかを推理するのは、この物語の謎を読み解く上で重要なポイントですね。
ところで、これらの人物が単純に嘘をついているという可能性はないのでしょうか。それを見抜くポイントは実はとてもシンプルです。それは主人公が知り得ない場面での登場人物の振るまいを見れば良いんですね。例えば火浦医師の場合、滝沢が退出した後、サポーターと思しき人物対面するシーンが描かれています。ここで火浦医師は現れた人物が自分を殺しに来たものとして振る舞っている。このほんの数秒のシーンがあるだけで、火浦医師は本当にサポーターが自分を殺しに来ると思い込んで滝沢と対話していたことが分かるんですね。勿論世の中にはセオリーに合わない酷い脚本も存在しますが、この作品に関してはこのあたりの基本的な演出は外してないと信頼して問題ないでしょう。
今週の映画
さて、今週も映画からの引用が散見されたわけですが、首都高向島出入口先の爆心地での「さらば青春の光」の引用は、第1話での「タクシードライバー」の引用と同様の“否定のための引用”ですね。この映画とは違う道を行くよ、という明確な宣言と捉えて良いのではないのでしょうか。
関越道を下った赤城山と榛名山に挟まれた立地にある火浦総合病院。そのロビーで差し出された薬を飲むシーンは「マトリックス」を連想せずにはいられませんね。真実を知る赤い薬とすべてを忘れる青い薬を選ばせたマトリックスの場合と違い、どちらも赤いカプセルであり、また滝沢は一切の躊躇なく薬に手を伸ばします。台詞にもあるように選択肢のない状況、また選択肢がない状況で即座に決断を下すことの出来る滝沢という人物の性向を短いシークエンスで強調しているんですね。またマトリックスを連想させることで、どこまでが本当で、どこまでが虚構なのかその境目を曖昧にするという効果も狙っているのではないかな、などと考えたりもします。実際、今週は滝沢が(おそらくは彼の記憶の断片を)幻視するシーンがいくつか挿入されていたりもしますね。混同した記憶の、何が真実で何が間違いなのかというのは今後徐々に明らかになっていくのでしょうね。
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