コンテナに詰めた丸太ではなく、木々を生み出す土を愛そう

テクノロジー : 日経電子版

 いい加減「コンテンツ」という表現もどうにかならないかなと思わないでもない昨今ですが。音楽業界の危機を環境問題になぞらえるアナロジー自体はそんなに筋は悪くはないと思います。ただ、アナロジーは対応をしっかり取らないとかえって胡散臭くなってしまうんですけどね。

 化石燃料を安価に無尽蔵に使えると思っていると痛い目に遭うのと同様に、音楽を安価に無尽蔵に使えると思っているとそのうちに酷い目に遭うぞ。岸氏の主張は大雑把にいえばこういう事でしょう。うん、まあそれはその通りだとは思うのだけれども。環境問題は生態系全体にかかる負荷が問題になっているのであって、音楽業界のほうの問題は供給システム…つまるところ資源の枯渇が起きるぞ!という主張になっていて微妙に前段と後段が食い違っている。便利に使いすぎると供給能力が破壊されて不毛地帯になるよ!という主張であればむしろ化石燃料よりも森林伐採の問題に置き換えて考えたほうが座りが良いように思いますね。

 音楽という森、楽曲という木々はいくら切り倒しても次々と生え替わるんだから好きに使っていいんだと思うのは大間違いで、実際にはその木々を生み出す土地(音楽を生み出す人たちのモチベーション)が疲弊し、新しく生まれてくる木々は痩せ細り魅力を失ってしまう。これならばある程度は説得力があるのではないでしょうか。しかしその為に岸氏が主張する対策がまた心許ない。

 岸氏が利益を代表する音楽業界・レコード会社というのは、音楽の森から切り出した楽曲という丸太をコンテナに詰めて世に送り出す商売です。今までは安価な流通手段がなかったが為に、丸太そのものの価格の数倍するコンテナ代を支払わなければ音楽を手にすることが出来なかったわけですが、ネットの発達によって、多くの人が直接音楽の森に赴いて、時には私有地の札が立っているのも無視して勝手に自分のコンテナに丸太を詰めて持って行くようになってしまった。これはまずいということで、丸太を入れるためのコンテナを売っている会社に丸太の代金を補填してもらおう、と。それが私的録音録画補償金なんだ、という主張なんだと思います。しかし、この私的録音録画補償金が本当に補填になってるのかというと、どうにも眉に唾を付けざるを得ないんですよね。

楽家が生きていくためにはどれくらいの補償が必要なのか?

 あー。例え話が面倒くさくなったので、普通に行きます。問題は、音楽家がどれくらいの対価を得られれば音楽を続けて行くことができるのか、だけなんです。評価に応じた正当な報酬が得られるならそれ以外の部分でレコード会社や流通会社がどれだけ儲けようともそれはまったく問題ないわけで。例えばですが、月に1曲書いて、それが5000人に支持されれば食べていけるくらいが良いと仮定してみます。5000人が100円をその音楽家のために支払えば50万円。まあ人一人が生きて行くには十分な収入でしょう。これを私的録音録画補償金で補填するとなるとどうなるか。1枚100円のCD-Rに焼いたとして、補償金の額はその3%。3円です。5000人が利用したとして1500円。本当はメディアの単価はもっと安いし、そもそも1枚のメディアに1曲しか入れないというのはあり得ませんからもっとずっと小さい数字ですね。

 実際、JASRACの公表データによると、19年度の著作権収入分配金1200億円のうち、補償金による収入はわずか5億円です。全収入の1%にも満たない。そんな小額を受け取れるか受け取れないかが死活問題になりますかね?なるとしたら、むしろ他の部分に問題があるんじゃないかと疑ったほうがいいでしょう。本当に私的録音録画補償金で補填したいと思うのなら、3%なんて言わずに50%とか100%とか主張すべきでしょう。どっちつかずの意図不明の金額だから叩かれる。

平成19年度収支計算書 JASRAC

 更に言えば、本来100円の価値のあるものにたかだか3円払っただけで利用者に「ちゃんと音楽家に還元した」と勘違いさせてしまう危険性すらある。これなどは元記事で岸氏が指摘する搾取以外の何物でもないでしょう。もし本当に私的利用のコピーが音楽家の生活を脅かすと主張するのならば絶対にこんな金額で妥協してはならないはずです。しかし現実問題としては、今まで過去20年近くこんな無意味な金額の補償の上乗せで、概ね問題なく業界は回っていたわけですよね。もしそれが間違っていたんだと主張するのなら、私的録音録画補償金なんて直ちに辞めてしまって、直接音楽家にもっと大きな金額を補填する仕組みを提唱すべきでしょう。あなた方が払ってくれないとあなた方の大好きな音楽家たちが音楽を続けられなくなりますよ?と言われたら否も応もなく払うよという音楽ファンは少なからずいるはずです。

音楽は体験してこそ価値がある

 そもそも、ただのビットの羅列でしかないデータに価値があるとかないとか言い出すから話がややこしくなる。それが再生され、体験した時にこそ音楽というのは価値を発するのであって、パッケージを含めて音楽を愛しているという人も、まず体験があって、その音楽体験とパッケージが分かちがたく結びついているからこそ、それを愛すんです。そして震えるような音楽体験を一度でもしたならば、その音楽を生み出した、生み出す力を持った音楽家に対して金銭でも、賞賛でも、それ以外の形でもとにかく何かを返したいと思うのは自然な感情です。

 多くの音楽ファンは、確かに音楽家に報いることが出来たという実感が感じられる仕組みを作ってくれるのならば、その為の手数料、手間賃を取られることはけして厭わないでしょう。少なくとも私はそう思っているし、多くの人がそう思っていると信じています。音楽に限らず生み出されたものに敬意も対価も払いたくないと主張する人たちもいます。きっと彼らは心から感動するような経験をしたことがないか、あるいは自分たちが感動した何かが自分たちと同じ人間が作ったものだと言うことを理解していないのでしょう。恩を感じたらそれに報いずにいられないのは、人間が生来持っている本能なんです。その気持ちを仲介するのが、レコード会社やコンテンツ業界関係者の本来果たすべき役割でしょう。私的録音録画補償金のような感情を媒介しないやり方は愚策であり、緩慢な死に至る毒だと早く気付いてくれることを願ってやみません。