サマーウォーズにみる、表層の豊かさと、深層の軽薄さ

 細田守監督の最新作「サマーウォーズ」を観てきました。結論から言うと、とても残念な内容でした。この感想も書こうかどうしようか迷ったのですが、同じような観点で書いてある評を見つけることが出来なかったのであえて書いてみようかと思います。

 まず誤解のないように言っておくと、この作品は娯楽作としての一定の水準は間違いなくクリアしているということです。映画を観て楽しく爽快な気分になったりしたい向きには十分満足のいく映画でしょう。しかしその爽快感は実のところ映画的な物語のうねりから生ずるものではなく、天才アニメーター細田守の精緻な絵コンテが観るものの情動を揺さぶっているだけに過ぎないのではないかと。確かにクライマックスのいくつかのポイントは感動的です。しかしその感動は実は映画の構造的な仕掛けによるものではなく、アニメーションの根源的な魅力のみによって引き起こされているだけだといったら言い過ぎですかね。

精緻に設計された29人の家族のアルゴリズム

 とにもかくにもこの映画の最大の見どころは、その大家族の描写の見事さだ。主婦連の過剰気味な仲の良さ、男共の身勝手さ、闖入者へと突撃をする子供たち、家族の輪から離れたがる思春期の少年。多少理想的に、コミカルには描かれているものの、ああいった大家族というものを身近で見知ったことのある人間ならばあの濃厚な人間関係がしっかりとした裏打ちの上にリアルに設計されていると感じるのではないか。おそらくはあの中の一員として問題を共有できる登場人物を見つけられれば、この映画の楽しみ方の8割を手に入れたと言ってもいいと思う。そして実際に多くの人に一定の満足を与えている点でこの映画は十分な成功を得ている。

 その一方でこの映画は、いわゆる非コミュ的問題を抱えた人や家族という形態に不信感を持つ人たちのアレルギー的な拒否反応を呼んでいる。そういった心象を持つ人たちが仮託すべきキャラクターがちゃんと用意されているにも関わらず。この映画の抱える欠陥の根はここに見ることが出来る。

家族の外の世界が見えない

 家族を疎みネットゲームの世界に没頭する思春期の少年カズマ、家族との関係性を結べずに財産を持ち逃げして出奔した侘助。この2人はおそらくは家族という共同体に馴染めない人のために用意されたキャラクターであることは想像に難くない。実際、家族の側の視点から見たこの2人の挙動は、一見理にかなっているようにも見える。しかし実際にこの2人に視点を合わせ世界を眺めた時に恐ろしい世界が現前する。彼らには縁を切った家族以外の世界がまるで存在しない…世界から孤立した存在としてそこに配置されているのだ。

 カズマはネット世界OZの格闘ゲームのチャンピオンであり、本来であればその世界で一定の尊敬や信頼を勝ち取って、家族ではない別の共同体に属していて然るべき存在なのだが、OZ内でカズマがつるむのはほんの数日前に出会った健二と、健二の友人の佐久間くんだけで、カズマのネット内の友人というものは一切登場しない。

 天才エンジニアである侘助は、仕事の成功をひっさげRX-7で乗りつけるといった派手な行動から見ても、決して社交能力が低い人間には見えない。そもそも誰も知り合いのいない海外で、一定の成功を得ようと思えば自分の手と足で人脈を作って世界と関わっていくしかないはずだ。しかし侘助と問題を共有する外部の仲間というものも終ぞ描かれることはない。

 彼らに感情移入してしまった人は、まるでこの世界では家族から承認されなければ誰とも繋がりを持たない孤独の中で生きていかなければいけないかのような強迫観念に襲われるのではないだろうか。この世界から断絶された存在というのは他の部分にも見ることが出来る。例えば、ラブマシーンの暗号を解いた「健二以外の55人」の存在だ。

55人の孤独な天才

 物語の中盤で、OZの管理権限を奪う暗号メールを解読した人間は健二以外にも55人いることが語られる。彼らは健二同様にアカウントを乗っ取られてしまったわけだが、当然彼らにも本来であれば家族もいれば友達もいるわけで、この信州上田の陣内家のように世界の存亡を賭けた戦いが世界のどこか別の場所でも行われて然るべきなのだが、そういった描写も一切なされることはない。まるでこの55人は、カズマや侘助同様に世界から断絶して誰の助けも得られず誰も助けることの出来ない孤立した存在のようになってしまっている。物語のクライマックスで健二のアカウント以外の全てが解放されたあとにも、彼らは結局駆けつけることはなかった。健二と同等かそれ以上の能力で健二の―それはそのまま世界の―危機を救うことが出来るにも関わらず、である。

 何を野暮なツッコミを、と思われるかも知れない。実際、こんな設定は省いてしまえば良いはずなんだ。暗号を解読したのは世界で健二1人で、世界の運命は全て健二と陣内家の面々にかかっているんだとしたほうが、プロットとしてはずっとスッキリする。チープと言えばチープだが、これだけご都合主義な設定の多い本作で、もう一つくらい都合のいい設定があっても咎める人もいないでしょう。あえて穿った見方をすれば、この55人の存在は、健二の世界の危機に対する責任を希薄化させ、あるいはこの陣内家という特異点の設定をより嘘くさくするために仕掛けられた作り手の悪意のように思えてならなかったりします。

 こんな嘘くさい薄っぺらい世界でも、人はシチュエーションと、十分に情動を刺激する絵と台詞とがあれば、簡単に感動してしまえる。細田守という人の作品にはときどきそういった人の情動に対するシニカルさというものを感じたりする。それはある種の絶望なのかも知れないし、それこそが細田守の創作のモチベーションなのかも知れない。しかし、これほどの才能を持ったアニメーターがその豊穣な演出力に見合う豊かな物語を紡ぐことが出来たら、そう考えるとやはりサマーウォーズという作品には「残念な内容だった」という評価を下さざるを得ない。それが偽らざる感想です。