ニコマスの広さと深さ

 最近ニコマスネタづいてますが言及いただいたので。

ニコマスの門外漢が『ぷよm@s』を思いっきり賞賛する ひまわりのむく頃に/ウェブリブログ

 まずはぷよm@sお楽しみいただいたようでおめでとうございます。続きが来るまで身悶えしてください(笑)

 ぷよm@sから見たニコマスの風景。そこに幅広くも自由な創作の風土を見た、というのはとても納得のいくところです。実際、昨日紹介した221選なんかはニコマスの広がりを体感するのに格好のサンプルですよね。しかしながら、例えばカブトボーグを引き合いに出して語られた、世界の掘り下げの深さがニコマス界隈にないかと言えば、それは否と言わざるを得ない。広さと深さが両立しているところが、ニコマス文化の特異なところであり、外部からみて得体のしれないところなのかもしれないな、などと思い少し考察してみようと思います。

 まず最初に何故過剰なほどの多様性が受け入れられるのか。これはルイさんが指摘した通りアイドルマスターのストーリーというものが断片だけで構成されていて、ユーザーの想像で埋める余地が非常に大きい、という点があります。これは特にアイマスというゲームを実際に体験していない視聴者/動画制作者に顕著で、つまるところ二次創作の素材としてとても優秀だったという点。これは御三家と並び称される東方、vocaloidにも共通する特徴ですね。

 一方で、アイドルマスターというゲームの魅力にドップリ漬かって、深くキャラクターとストーリーに思い入れを持った人たちがいる。彼らこそがニコマスの最前線を引っ張って来たのですが、キャラクターと世界に対する深い造詣を共有しつつも、彼らもまた多様性を許容するんですよね。それは何故か。

 その理由の1つは、アイドルマスターというゲームのグランドストーリーが、「成長と可能性」を描いていることにあると私は考えています。

 さて、ここで改めてアイドルマスターというゲームの特徴を押さえておきたい。アイドルマスターというゲームは、プレイヤーがアイドルプロデューサーとなって、駆け出しのFランクアイドルをレッスンやオーディションを繰り返しながらAランクアイドルに育て上げるゲーム、と要約されるわけですが、この説明だけではいろいろと抜け落ちる要素があるんですね。その一つは、1組のアイドルのプロデュースを終了しても、ゲームとしてリセットされるわけではないということ。プロデュース終了したアイドルはCランクならCランク、BランクならBランクなりに結論を出してプロデューサーから自立していく。そしてプロデューサーはその成績によってプロデューサーランクを上げながら、改めて1から他のアイドルを育てていくという、プロデューサーを成長させていくという要素もあるんですね。これがどういう心象をもたらすかというと、プロデュース終了した女の子と、改めてプロデュースする女の子が、例え同じ名前同じ姿形同じバックボーンを持っていても、それは別人であると感じるんですよね。勿論とらえ方には個人差があるでしょうが、特に前のプロデュースが失敗したり悔いの残るものであったり、あるいは逆に得難い幸運によって素晴らしい結果が得られたような特別なプレイだった場合、そのプロデュースというのは、プレイヤーにとって唯一無二の代え難い体験になるんですよね。

 アイドルマスターのアイドルたちはFランクからAランクまで駆け上がる中で人間的な成長をして、最初期のまっさらな状態から次第にキャラクターを変化させていく。関係性の変化以上の、人格の成長をきっちりと描くんですよね。AランクとFランクでは同じ女の子でも、別人と言って良いくらい違う魅力を見せる。それはどっちが良いという話でなくて、人は変わっていくものなんだというのをゲーム体験を通じて身に染みて味わうことが出来るということなんです。AランクにはAランクの、BランクにはBランクの、CランクにはCランクの、それぞれの像に魅力があって、元々のゲームからして唯一の像を結ぶことが出来ないんです。

 その結果どうなるかというと、感受性の豊かなプレイヤー=プロデューサーたちは、あり得たかも知れない別の可能性、別の未来へと思いを馳せずにいられなくなるんですね。それがアイドルマスターの二次創作のうちのいくつかの動画を見ると非常に良く現れている。

 例えば昨年話題沸騰となった傑作「3A07」。この物語はアイマスを知らない人にも幅広くリーチする事の出来る圧倒的な完成度を誇っているわけですが、これをアイドルマスターの原作を踏まえた視点で見ると、このあずささんというのはBランクに上がりたてのころのあずささんで、そこで原作には有り得ない別れに遭遇することによって、原作とは違う未来へと足を踏み出す物語なんだと捉えることができます。その時のあずささんの心境、置かれている状況、プロデューサーとの関係というのは原作を知らなくても伝わってくるものがありますが、知っていれば尚更に通る、あるいは知らなければ決して見えてこない部分もあるんですね。表面的な理解では決して辿り着けない真実というのがそこには隠されている。それはもちろん知らなくて良いんです。知らなくても演出の力だけでもうボロボロと泣けてくる。しかし動画を精査した時にあるちょっとした矛盾やよく分からないところというのは、それはあのあずささんがBランクあずささんだと分かった上で読まないと読めないんです。

 あるいは3A07と並んで2009年のアイマス2次創作の最高峰「水瀬伊織ツンデレーション」。水瀬伊織のベストエンドへと至る道のりと、その後の可能性を描いた本作は、プロデューサーと共に成長するアイドルというアイドルマスターの本質を突き詰めた傑作として大絶賛をもって受け入れられている。この動画はwhoP制作のremembaranceというシリーズの1作という位置付けなのだが、このremembaranceシリーズは「多重に存在するアイドル」と「プロデューサーの成長」というテーマを突き詰めたニコマス界隈でももっとも深い位置に存在するシリーズと言えるんじゃないかと思っている。しかしこれもまたけして一見さんお断りではなく、まったく何の予備知識がなくても、むしろ予備知識のない人をこそ引き込むくらいの勢いで丁寧に組み上げられているんですよね。

 と、だいぶ話が逸れてしまった気がする。何故アイマスのディープなプロデューサーたちが、アイドルのキャラクターの幅を許容するのか、という話でした。それはひとえに、ベースさえ、スタート地点さえ同じであれば、アイドルたちはどのようにも変わっていくし、またそれぞれに魅力を発揮すると言うことを肌身をもって感じているからなんですね。ある動画であるアイドルが特異なキャラクターを与えられていたとする。例えばよく言われる黒春香といったものでもいい。この黒春香というキャラクターは当時ニコマス上でもニコニコ動画以外のアイマスコミュニティーでも相当な物議を醸したのですが、いったん素の春香から黒春香へと至る道というのが通ると、その後はもう自然に受け止めるより他ないんですよね。もちろん今でも認めないという人もいるでしょうけれども、Fランク春香が、黒春香へと至る道というのは数多くの動画の中で様々なパターンで物語られており、その段に乗る限り黒春香もまた春香のあり得べき可能性の一部として受け入れることが可能なんですよね。それはユーザーに独自解釈の裁量が預けられているというのとは、やはりちょっと違って、ひとつの起点から無数に分岐する枝のひとつとして共有可能なものなんですよね。それはもちろん一見の視聴者さんが気にすることでもなく、ただ面白がって動画を見続けていくうちに勝手に気がつく話なんですが。だから誰もそういった読みを強要もしない。白も黒もみんなひっくるめて春香さんだもんげとか言って、一見おちゃらけているようで、実は根っこが繋がっているというのが、ニコマスコミュニティの団結力の源でもあるんでしょうね。