曽田正人の目指す頂

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100213/p1

 曽田正人シャカリキ!や昴に比べて、moonのテンションがいまいち上がらないよね、というお話。それについて海燕さんは、曽田正人ほどの才能ならばもっと先を、もっと凄いものを描けるはず。それを求めることは酷かもしれないけど、一読者として期待したいといった事を言っておられるわけですが、それはちっとも酷な事だとも思わないんですよね。というよりも、今現在のmoonと曽田正人は、その未踏の頂を登るための大いなる助走をしているのだろうと思っていたりします。そのことを説明する前に、簡単に曽田正人という作家の辿ってきた道のりを主観的に語ってみたいと思います。

シャカリキ!

 まずは実質的な連載デビュー作であり、曽田正人の原点とも言える「シャカリキ!」。これは自転車の魅力に取り憑かれた“坂バカ”野々村輝が、ライバルたちと競い合いながら、最終的に周囲を畏怖させるほどのロードレーサーへと変貌していくという物語です。落車骨折した時の輝の台詞「落車はもう怖くなくなった。病院に行けば治してくれるとわかったから」は、才能ある人が、人間の範疇を超えて天才…一種の怪物へと変貌する瞬間を描ききった名シーンとして連載から15年以上たった今でも語り草になっていますね。

 そのシャカリキ!は、高校卒業後に、世界へと飛び出したという簡単なエピローグを添えただけで連載が終了しています。これは当時も…この続きが読みたい!なんでここで終わっちゃうんだ!という熱いファンの声があったものですが、この続きは描かなかった、というより描けなかったという側面が強かったんじゃないかなと今になって思います。日本の、高校生レベルであれば個人の才能1点突破で突き抜けることも出来るけど、世界の壁の厚さを考えた時にはそれだけではどう考えても足りない、と、生粋のロードレースファンである曽田先生は考えたんじゃないかなと。このあたりにも曽田正人という作家の誠実さというのがよく出ているとは思うのですが、描くだけの力量がないと自身で判断したら描かない、というところがあるように思いますね。それが後の昴の中断にも繋がります。

め組の大吾

 その次に曽田先生が手がけたのが「め組の大吾」ですね。人にはない危機感知能力に優れた主人公朝比奈大吾が、組織の中で衝突を繰り返しながら己の才能を周囲に認めさせ、最終的に(少々強引ではありますが)誰もが認める英雄的なハイパーレスキューへと成長する物語。強引とは言いましたが、曽田先生の中で大吾が周囲に認められるということの理路がたった。だから一気呵成にエピローグに雪崩れ込んだんじゃないかな、などとも思ったり。ちょっと大吾に関してはあまり入れ込んでないので分析が足りないのですが、ともかくその大吾の熱が覚めやらぬうちにとばかりに始まったのが「昴」ですね。

昴とカペタ

 「昴」が大傑作であることは疑う余地もないところです。この作品の何が凄いのか。アスリートの世界を描いてきた曽田正人がアーティストの世界を描くことに挑戦したこと。そして、その天才の目覚めが1ページを惜しむような圧倒的な密度と速度で描かれていること。特に挙げるとしたらその2点でしょう。「昴」という作品は、いわば「シャカリキ!」でやったことを、更に圧縮する形で走り抜け、そして飛び越えていった作品。そう言うことが出来るんじゃないんでしょうか。「昴」は曽田先生が「シャカリキ!」の続きで描かれるべきだった世界を描くために始めた作品、そのように考えています。しかしその「昴」も、クライマックスのボレロで幽玄の世界を見せたあと、“奇妙な”恋愛エピソードを挟み、長い休載期間へと入ります。そして描き始めたのが「カペタ」なんですね。

 「シャカリキ!」のところでも言いましたが、曽田先生は「今はまだ描けない」と判断したら描かない、という決断の出来るある種のドライさをもった作家だと思っています。その作品の膨大な熱量と相反するようですが、非常にクレバーなんですね。まさに「心は熱く、頭は冷静に」といったことを実践しているわけですね。そうして始めたカペタは、いわば昴に足りないものを描くための習作としての側面をもった作品でもあります。ここで難しいのはモータースポーツ…F1という題材は曽田先生にとって非常に思い入れのあるテーマであるということで。つまり習作のつもりで始めたけど入れ込み過ぎちゃって昴のことは放っておかれてるんじゃないか、という心配がファンからなされていたんですよね。

そしてMOONへ

 しかしその心配を振り払うように曽田先生は、カペタの連載を継続したまま「MOON―昴ソリチュードスタンディング」というタイトルで「昴」の連載再開に踏み切ったんですよね。これはいったいどういうことか。先ほどから言っているように、曽田先生は描けないと思ったら描かない人なんです。ということはそれだけで勝算があって、描ききれると思って描き始めたと信じる根拠たり得ると私は思っています。だけどMOONは昴みたいに熱くないし、いまいち盛り上がらないし、楽しくないじゃないか、という声もあると思います。実際、はっきりいって物足りない。そう考えていいと思います。ただし、おそらくはそれは曽田先生も織り込み済みなんじゃないかな、と。

 MOONに対する批判として、カペタと同時連載なんかしてるから熱量が足りないんだ。どちらか1本に集中すべき。という意見があります。確かにその通りです。1本に集中したほうが確実に熱量は上がる。なのに2本連載してるのは、曽田先生がF1という題材に入れ込んでカペタを中途で終わらせられないからだ、という見方も分かります。だけどちょっと考えて欲しいのは、もしカペタの終了を待っていたら、昴の再開はもっとずっと後になってしまうんですよね。それでも不満足な出来になるよりマシだと言われる向きもあるでしょうが、曽田先生の構想の中で、もともとこの再開後の昴がしばらく低テンションで進行していく事が必然であったとしたら、それは話が違ってくるんですよね。実際、ボレロ後のいわゆる「アレックス編」からして既に、行き場を失って迷っているような印象へ変化してるんですよね。じゃあいったいその意図はなんなんだよ!というところでカペタの話に戻ります。

 カペタは、1人の才能と出会いに恵まれた少年が、数々の逆境を乗り越えてモータースポーツの頂点へと駆け上がっていく(という予定の)物語です。その中で描かれているのは、カペタという才能が、その情熱を周りに感染させ、周囲を巻き込んで彼を上へ上へと押し上げていくという構造なんですね。これこそが、それまでの昴にはなくて、これからの昴が獲得していくべきもの、なんではないかと考えるといろいろとつじつまが合う部分があるのではないかと最近思うようになっています。カペタと同時進行しているのは読者サービスという側面も勿論あるでしょうが、昴というキャラクターの持つ強い引力に引きずられて描くべきものを描けなくならないようにあえて安全弁を掛けているようなものかもしれません。

 考えてみれば昴の全11巻の物語というのは、曽田先生にとっては描けて当たり前の話なんです。登山に例えるならばかつて一度登った「シャカリキ!」という山を今度は単独登頂タイムアタックするような話で、間違えさえしなければ必ず登り切れると信じて、実際に描き上げてしまった。もちろんそれは偉業だし、読者に強い感動と興奮を与えるものなんだけれども、曽田先生にとってはちっともまったく未踏の領域ではない。そして実際に登ってみてまだ次の挑戦に行くには足りないと分かったからこそカペタを描き、ついに準備が整って、今は未踏域へアタックするためのベースキャンプを作っているといったところでしょうか。

曽田正人の作家性

 キャラクターの魅力に引っ張られて、あるがままに展開する物語というのも、それはそれでとても美しい。例えば「あしたのジョー」や「デビルマン」といった傑作は、最初に着地点を決めて描き始めたら決してあそこには辿り着かなかっただろうという確信があります。それに類似したものを「昴」に求める気持ちも分かります。しかし曽田正人という作家は、もともと一貫してしっかりとした着地点を定めて、そこを目指して全力疾走するタイプの作家なんですよね。では「昴」の目指すべき理想型、昴の辿り着く着地点とはいったい何なのか。これは簡単に言葉で説明できるものではないですが、おぼろげながらその姿は見えなくはないかな、とも思っています。実在の人物に例えるならば、それは一つはやはりアイルトン・セナであり、あるいはひょっとしたらマイケル・ジャクソンなのかもしれないな、という事を映画「This is IT」を観て思ったりもしました。この二方は我々の生きるこの世界では、志半ばで不慮の別れをすることになってしまったのですが、曽田正人の描く「昴」の世界では、言うならば旅立たなかったアイルトン、旅立たなかったMJを描こうとしているのではないかな、などと考えるのは妄想が過ぎますかね。

 と書き綴って来ましたが、いち読者として、今のMOONを物足りないと感じることを否定するつもりは全くないですし、むしろ積極的にそう思うべき、とすら思います。しかし今が物足りないのは、これは曽田正人の作家としての力量が衰えたからではなく、むしろこれからとてつもない大傑作を生むための大いなる助走期間なんだよね?と言ったほうが、ただただ切望するよりもずっと前向きだし、作家に対しての正しいプレッシャーのかけ方かな、なんてことも思ったりします。もちろん、そこまで行かなかったり、物足りないまま終わってしまったら「残念!」と力一杯叫びますw。なんにせよ、まだ結論を出すのは早すぎますぜ。

おまけ

LDさんと昼間にTwitterで対話した時のログをTogetterしてみた。かなり独特の符丁で会話してるので読んでもわからない気もするけど参考までに。

曽田正人がMOONで目指しているもの - Togetter