限界と境界

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100303/p1

 例によってまた海燕さんの記事なのですが、これは限界と境界という2つに分けて考えたほうがいいように思います。

 人間の活動領域には物理的、肉体的な制約があって、どんなに望むことを望むままにやろうとしても自ずと限界がある。その限界を晒すことは本来無様な事なんだ、という話はLDさんとよくします。それでもあえて、その無様な生き方をしようぜ、という意気をこめて。

 ただ、海燕さんが問題にしているボーダー…境界と言い替えますが、これはこの限界によって仕方なく引かれる線とは違いますよね。海燕さんが問題にしている境界というのは、限界に自覚的か無自覚かに関わらず自らの意思でこれ以上は踏み込まないと積極的に引いた線のことなんじゃないのかなと。

 なんでそんな境界をわざわざ引くのかと言うと、一つはさっきも言ったように限界を思い知ることは無様だから。誰だって理由もなしにわざわざ無様を晒したい人はいませんから、予防的な意味で線を引くことはある。

 もう一つは、線を引くことが、あらゆる意味で効率的だったからだと思うんですね。線を引いてその中にいれば予測不能な事態に陥る危険は少ないし、コミュニケーションコストも少なくてすむ。簡潔に言えば「生きやすかった」。

 と、さっきから過去形で書いているんですが、もし今、若い人たちにこういった境界を持たない人が増えてるとしたら、上に書いたような前提が崩れてきているんじゃないかと思うんですね。

 境界をわざわざ設けなくても生きやすい、あるいは境界を設けるとかえって生きづらい。そんな世の中になってきてるんじゃないかと最近実感してたりします。