「魔王×勇者」が「その先の物語」を描けた理由
今、Twitterを中心にしてものすごい勢いで拡散をしているWEB小説がある。
2ちゃんねるのVIP板発祥の、いわゆる新ジャンルと言われている形式で書かれた長編物語。この物語がいかに強力な力を持っているかについては既に多くの方が記事に書いているので少し違った角度から紹介してみたい。
人生を変えることのできる物語/魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 - ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100423/p2
君の知らない魔王と勇者の物語 - 敷居の先住民
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p4
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1) - 今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』というのは2chでこの物語が綴られたスレッド名。実はこの物語には正式なタイトルすら存在しない。それでは不便なので「魔王×勇者」であるとか「まおゆう」という通称が最近は用いられていますね。この物語の発祥の経緯はこちらの2chの生ログを保管しているサイトで見るとより分かりやすい。作者のマーマレードサンドさん自身を交えたTwitterでの発言のまとめもありますね。
新ジャンル_log 魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」
「魔王 勇者」でGoogle検索すると…… - Togetter
魔王と勇者の関係性を脱構築して掛け合い漫才をするというのは当時既に定番の様式になっていて、この「まおゆう」も、魔王が勇者に理を説くという、その定番に沿った形で始まっているんですね。しかもこのスレッド自体が記述者であるマーマレードサンドさんが立てたものではなく、スレ主が立て逃げしたところを乗っ取るという形で始まってるんですね。この時点では誰もが一発ネタだと思っているし、よもやこれほどの大長編物語になるなんてことは誰も(作者自身も?)想像していないんですよね。その始まり方が、この物語をかつてない高みに導く一つの要因となっているんです。
その先を目指した物語としてのコードギアス
この物語を読んでいて個人的に想起せずにはいられなかったのがアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」です。今どきの物語読者であれば「善と悪なんてものは相対的なものでしかない」「戦争とは異なる二つの正義のぶつかり合いだ」といった物語は当たり前の話として受け入れていると思います。じゃあいったいその先の物語とは何か?という話はLDさんの記事やペトロニウスさんの記事に詳しいので細かくは書きませんが、この「まおゆう」は善悪が相対化された世界で「善く生きる」とはいったい何なのか、ということに真摯に向き合った物語なんですね。この作品の中の印象的な台詞のひとつ
「 正義ではわかり合えない我らは、誰しもが“もうちょっと幸せになりたい”とささやかな願いを抱いている。」これはコードギアス第1期最終回の
「人は、幸せを求める存在である。ルルーシュが求めたのも、最初はほんのささやかな幸せだった。願いははかなく、小さく、そして尊いもの。誰にも否定できるものではない。その行動がいかな結果を呼んでしまったとはいえ、根源には幸せになりたいと願う気持ちがあった。誰もが幸福な人生を生きたいのだ。それは変わらない。」
このモノローグを彷彿とさせます。断言してしまいましょう。この物語でマーマレードサンドさんが描いたものと、コードギアス第1期の時点で谷口監督が描こうとしていたものは同じものだったと。しかし残念ながらコードギアスの第2期は、そこまで届かなかった。かなり、本当にかなり惜しいところまで描かれながら、多くの物語と同様に最終的に未来へと希望を託す「保留」という解答を示すに留まってしまった。それは何故か。
ひとつは各25話、全編あわせても50話という尺の限界。この決められた枠の中で一つの物語として、エンターテイメントとして折り合いをつけなければならないというのはこれだけで相当に厳しい制約です。しかもロボットアニメとしてのノルマとして戦闘シーンや、キャラクターを生かすための日常シーンもふんだんに盛り込んだ上であれば尚更です。じゃあ日常シーンをカットすればいいというのは本末転倒で、何気ない日常シーンが描くことこそがこのテーマを描くための必須条件なんですね。だからこそコードギアスという作品は、様々な技法を用いて徹底的な情報圧縮を仕掛けているのですが、それでもまだ少し足りなかった。あるいは制作状況の悪化に伴い当初の予定では出来るはずだったことが出来なかったという部分もあるかとは思います。この制作状況の問題のひとつに、視聴者の反応が1テンポ遅れてやってくるという問題があります。テレビ等の既存の媒体で発表する以上、放映と制作の間には数週間のズレがどうしたって生じます。視聴者の反応を見て展開を修正しようにも、どうしても足回りに限界はある。コードギアスという作品は相当に野心的な脚本を書いているのですが、結果として視聴者の反応が悪ければ修正せざるを得ない部分もある。そのタイムラグが最終的に響いてしまったのかなと思う部分もあります。
「まおゆう」がその先を描くことが出来た理由
「まおゆう」がその先を描くことが出来たのは、上記に上げた理由のちょうど裏返しになるんですね。そもそも物語の尺に制限がない。というよりも、物語を完結させる義務すらないんですね。だから作者自身が本当に書けるかどうかわからないテーマに対しても、臆することなく挑戦することが出来る。更に言えばこの「まおゆう」もどこか適当なところで打ち切って「保留エンド」に出来る構造になっているんですね。もしこれ以上続けることが出来ないと思ったらいつでも保留に出来る。だからこの物語がこうして見事に完結したのはそれ自体が実は奇跡みたいなものなんです。もちろん作者であるマーマレードサンドさんに辿り着く先のビジョンがあってこそなんですが、実際にそこに辿り着ける保障なんてなにもなかったんです。
制作状況そのものが物語テーマとシンクロする
もしかしたらこの先には悲劇的な結末しか待っていないかもしれない。あるいは悲劇的な結末にならなくても、キャラクターの自然な心理に寄り添うことが出来ずに白けた幕切れになってしまうかもしれない。リアルタイムで読んでいた読者も、作者自身も、そう思ったことは一度や二度ではないはずなんです。何しろ本当にこのレベルで「その先」を描いたお手本なんてどこにもないのだから。この先の見えないという製作状況そのものが、物語の終盤の展開と見事なまでにシンクロしてるんですよね。ひょっとしたらもうダメかもしれない。あるいは自分ひとりが/誰かひとりが犠牲になればすべてが丸くおさまるかもしれない。各キャラクターが、読者が、作者自身の頭にもそれが過ぎりながら、そうではない答えを必死に模索していった。その結果としてすべてのパズルのピースがピタリとはまり込むような奇跡が最後に結実してるんですよね。
奇跡の物語のその先にあるもの
だから、この物語はやっぱり奇跡なんです。最終最後のシチュエーションのイメージはおそらく最初期からあったでしょう。だけどそれまでに積み上げたパズルのピースどれひとつ欠けても、あのラストシーンとは違ったものになっていた。そのパズルのピースがすべて揃ったのは、各登場人物がその場その場で最善を尽くしてきたからなんですよね。もしこれがあらかじめ決められたシナリオに沿って、あらかじめ決められた役割をこなす物語であったならば、これほどまでダイナミックな展開というのは逆に嘘くさくて描けなくなってしまう。彼らが、彼女らがあの高みに到達出来た事自体がこの物語がリアルタイムに生成されたという事実をそのまま物語っているんですね。
そうして生まれた奇跡というのは、ただ奇跡であるという以上の意味があるんです。それは、この物語をエンターテイメントとして描ききることが出来ると言う手本を我々が手にした、ということなんです。あるいは物語の新しい定型が生まれたと言っても過言ではない。ひとつの例として、すでにこの物語の作者であるマーマレードサンド(橙乃ままれ)さんは、このテーマを踏まえた上で、今度は地の文のある一般的な小説の文体で新作を書き始めています。
もちろんキャラクターの生成力、成長力という部分で、本当に定型として取り入れても大丈夫なのかという部分もあるかとは思います。それもいずれサンプルが増えていけば、「そういうもの」として受け入れられていくでしょう。そもそもこれだけ膨大な数のキャラクターをコントロールするというのは不可能な話で、可能だとしても恐ろしく膨大な労力を要求される。そうではなく「行動原理」をもったキャラクターが「動機」を得て「目標」へと転がり落ちていくというのが「まおゆう」で用いられている作劇法なんです。これは意識無意識に関わらず、最近のいくつかの作品で既に取り入れられている手法として認識しています。おそらくはおがきちかさんの「ランドリオール」や、ここ最近では週刊少年ジャンプの「バクマン」などもこの手法を用いているのではないかと推測しています。漫画ではないですが以前紹介したニコニコ動画上の長編物語「アイマスクエスト」なんかもそうですね。
キャラクターが勝手に生成/成長していくと言うと訝しむ人もいるかもしれませんが、これは我々がすでに膨大な量の物語のストックを手にしているからこそ出来るワザと言うことも出来ます。膨大な量の物語が編まれ、膨大な量の物語を享受している現代だからこそこの物語は成立し得るんです。数々の物語で精錬されたキャラクターの成長の類型というのはそれ自体が普遍性をすでにまとっているですね。だからそれに依って編まれた物語もまた普遍性を損なうことはない。その一つの結実点としてこの物語は長く語り継がれるのではないでしょうか。