「ゲーセン少女」が人を激昂させる理由

 もうかないり下火になってきましたが「ゲーセンであった不思議な子の話」という2ちゃんねる発の小咄を巡って、はてな界隈で賛否両論の論説が繰り広げられています。私自身はこの小咄については可もなく不可もなくという印象なのですが、最近とかく問題になっている「2ちゃんねるまとめサイト」について考える上でも興味深い題材に思えたので少し考えをまとめてみます。

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk

2ちゃんねるに「真実」はない

 まず大前提なんですが、この小咄は2ちゃんねるニュー速VIP板の派生であるニュー速VIP+で書かれたものである、ということ。そしてこれもまた大前提なのですが、そもそもニュー速VIP系という場所は「本当の事を書く場所ではない」ということです。これはすべてが創作であると言っているのではありません。ニュー速VIPで書かれる小咄のおおよそほとんどが、嘘と本当の事がない混ぜになった、虚々実々の物語である、ということです。それは実話であると明記してあろうがなかろうが同様で、仮に語り手が「これは実話だよ」と言っていたとしても、例えば身元バレを防ぐためにディテールを誤魔化したり、また話の展開を盛り上げるために演出を盛ったりということは当然普通に行われていると思って読んだほうがいい。

 こういった小咄を日本では古来より「法螺話」と呼んできました。つまり2ちゃんねるで綴られているこの手の自分語りというのは、真実でも創作でもなく、その中間にある「法螺話」なんです。まず、それは前提として理解する必要がある。

 ましてや今回の話は語り手である「1」はこの話が実話であるという宣言を実は一度もしていない。この時点でこの話は、おおよその筋が創作で細部に1の体験を盛り込んだ形の法螺話なんだな、というのは簡単に見て取れる。実際、このスレをリアルタイムで読んで合いの手を入れていた聞き手も、これをまとめたまとめサイトも、これが実話だなんてことはまったく考えてもいなかったでしょう。にも関わらず、これをまとめサイトで読んだ一定の割合の人々が、この話を真実として受け取った。ここにこの小咄をめぐる対立の根幹があります。

「死にオチ」は本題ではない

 もうひとつ重要な点は、この小咄がいわゆる死にオチで終わるのはけして本題ではない、ということです。語り手である1がこの話を通じて書きたかったのは結論部分ではなく、幕引きがこう言った落とし所になったのは、単に1の創作の引き出しに他に妙手がなかっただけの、言ってしまえば力量不足の結果でしかありません。

 これを前提にして読むと、1と聞き手のスレ住民とのやり取りが、手なりで死にオチへと向かっている話の筋を、なんとか方向転換させようとスレ住民たちが合いの手で誘導しようとしている様子が見て取れて面白かったりもするのですが、この話が評価されたのはテンプレの涙話だったからではなく、序盤〜中盤にかけての1の軽妙な語り口、また、歌詞を引用することで情景描写を引き出すという手法、また、やり取りを通じてひょっとしたらハッピーエンドに持ち込んでくれるんじゃないかといった期待ゆえなんじゃないかなと。では1が一番書きたかったところはどこか、と言えばおそらくここでしょうね。

彼女は夢を語りだした。
彼女「ゲーセン減らないでほしい。どんどん減ってる。
わたし、いろんな人が楽しめるアーケードゲームを作るのが夢だった。」

それを語る彼女は、いつにも増して真剣そのものだった。
凛とした視線で、かっこいいとさえ思った。

彼女「ゲーセンでしか味わえないドキドキがあるんだよ。
富澤はどんな時にそう思う?」「わたしはね」

 それまで積み上げてきたディテールは全てはこの場面を描くためであって、実際、それ以降の死に至るまでの過程は驚くほど淡白にしか描写されていません。この話に感動した、という人はおそらくここが一番のピークで、その後の描写についてはおよそ余韻で読み切ってしまったというのが正直なところなんじゃないんでしょうか。

 ただ、このテーマに対して死にオチというのはやはりどうにも座りが悪く、その気持ちを収めるために「事実なんだから納得がいかなくても仕方がない」という思い込みが起こったのではないかな、と考えます。こう書くと「本当に本当かもしれないのに不謹慎じゃないか」みたいに思われるかもしれませんが、仮にこれがハッピーエンドで落ち着いていたらこれを実話だと思う人はどれくらいいるのかと思うんですよね。そして仮に実話だったとした場合、こんな語り口で自分の彼女の死に様を書くなんてちょっとありえないというツッコミはid:Lobotomyさんが辛辣な言葉でなさってますね。

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 もうひとつついでに言うと、多数ツッコミを受けている、トルコキキョウの花言葉が間違っている件ですが、花言葉の真贋なんてのはちょっと検索すればすぐ分かるわけで、にも関わらずわざわざ取ってつけたようにそれを書いているのは「これは創作話ですよ」という符丁なんじゃないかな、と。感動してグッと来ているところに「というお話だったのさ」とわざわざ書き込むのも野暮で、かと言ってまったく作り話なのか実際の出来事なのかを明かさないのも不誠実かなというバランス感覚のなかでこういった手法が用いられているんじゃないかと考えます。

人は信じたいことを信じる

 野暮を承知でハッキリと言ってしまいますが、この小咄は間違いなく創作です。ディテールの部分、例えば「おばあちゃんが卵巣がんで亡くなったとか、COACHが好きな彼女がいたとか、妹が服飾の専門学校に通っているとか、そういった細部は1の実体験である可能性はあるけれども、大筋としては作り話と断じてしまって構わない。構わないし、その上でこの話を読んで感動する人がいるのもまたごく自然な事なんです。クライマックスに至るまでの盛り上げ方は、それに見合うだけのものが十分あるお話なんですから。

 その上で、やはりこの話が死にオチで終わるのは安易で、不出来であると言っていい。その不出来さを納得するために、明らかに創作されたお話を「事実」として受け止めて処理するのはそれは駄目だろうというのが、今回この話の盛り上がりに対して批判されている人たちの気持ちなんじゃないんでしょうか。

 実際のところ、これはあくまで楽しみのための物語であって、嘘であろうと真実であろうと誰が困るわけでもないのも事実です。世の中にはもっと質の悪い「嘘か真かわからない話」というのはたくさん飛び交っている。今回、この話を褒める向きに対して烈火のごとく怒りの声を上げる人達が多数現れたのは、この話を「どっちでもいいじゃん」としてしまうことに「真偽を合理的に判断せずに信じたいことを信じる」という性向を垣間見たからに他なりません。

 一方で、例えば島国大和さんが言うように、この話がだれかを騙すために周到に計算されて書かれたとするのもまた穿ちすぎであるとも思います。

実話として流通する嘘に大喜びする愚民 島国大和のド畜生

2ちゃんねるで書き綴られる小咄というのは基本的にその場のノリと勢いで書ききってしまうもので、席を外したり日を改めたりするのはそれこそ本当に単に用事があったか、あるいは展開に煮詰まって考える時間が欲しいか、といったところでしょう。合いの手が、ちょっと盛り過ぎだろうというくらいに盛り上げるのも席を外した1が戻って来やすいように場を暖める意味合いが強くて、自作自演で盛り上がっているように見せているというのはちょっと考えられないですね。この手の小咄は一旦間が空いてしまうと書き手が戻ってこないことも多く、面白いと思ったらとにかく盛り上げるというのが一種の流儀なんですよね。書き終わった後の「感動した」といった類のコメントも、「またなんか面白い話書いてよ」くらいの意味に受け取っておくのが妥当なところでしょう。

まとめサイトの責任は問われるべきか

 そもそもこの小咄をめぐる議論というのはまとめサイトに取り上げられたがゆえ、というところがあります。少なくともこの話に関しては、ちゃんと創作であることが汲み取れる形で発言を拾ってあり、かなり誠実なまとめがされているパターンであるとは思います。古くからある創作系のまとめサイトは、最近問題になっている速報系のまとめサイトに比べれば十分なバランス感覚を持ったものが多い、というのが個人的な印象ですし、まとめ人自体が好きでそれをやっているのが見て取れるのであまり強く批判しようとは思いません。

 しかし最近問題になっている速報系のまとめサイトは虚々実々の報道を面白おかしくより一層の誤解を生むように切り取るものも多く、そういったまとめサイトに対してフラストレーションが溜まっていたところに「明らかな創作を実話として持ち上げる」という燃料が投下された結果が今回の論争の火種だったんじゃないかなと。

 とはいえやはりそれはそれ、これはこれという分別はやはり必要かとは思いますし、この小咄を面白く読むことが出来た人も、2ちゃんねるでの創作のあり方を承知した上で、「それでもやっぱり面白かったよ」と言っていただければ余計な対立を避けることが出来るんじゃないかななどと愚考する次第です。