「魔法先生ネギま!」よ永遠に

 週刊少年マガジンで連載されていた2000年代を代表する少年漫画のひとつ「魔法先生ネギま!」が9年に渡る連載の末ついに完結しました。ドタバタお色気コメディとして始まった本作がここまで壮大な叙事詩となると当時予想していた人はどれほどいるでしょう。漫画史に残る多大な成果を残したこの傑作の足跡を改めて振り返ってみたいと思います。


お色気学園コメディとしてのスタート

 31人の女子中学生と10歳のこども先生が繰り広げるドタバタお色気コメディ。赤松健先生の前作「ラブひな」を受ける形で始まった本作は、まずはそんな形でスタートしました。マンモス学園を舞台に魔法も超常現象も超科学も何でもアリな世界観で美少女たちが騒動を巻き起こすというオーソドックスなフォーマットは往年の名作「うる星やつら」等を想起想させます。また魔法使いの少年というキャラクターは当時大ヒットしていた「ハリーポッター」からの連想でしょうね。31人のヒロインという数で押す形式も時代を先取りしており、ヒットするべくしてヒットしたといった感が強い印象でした。

 「ネギま!」が特に形式として優れていたのは、10歳の少年を主人公に据えることで31人のヒロインとの間で色恋沙汰に発展するのを抑制していた点ですね。これは後々変化していくのですが、惚れた腫れたに発展することなく子供だから許されるハプニングエッチで賑わせるという構造は序盤においてとても有効に働いていたように思います。

少年の成長物語としての「ネギま

 その一方でこの作品は、かなり早い段階から少年主人公ネギの成長物語としての構造も早くから提示していました。毎回バカバカしいお色気コメディを繰り返しながら、生真面目で才気あふれる少年ネギが、英雄と呼ばれた父の影を追い、また悲劇に襲われた故郷の村を救うために世界の謎へと迫っていく王道のストーリー。ただのお色気漫画だと思っていたら意外と骨太で面白いぞ?と思ってハマった人も多いんじゃないでしょうか。

 またネギ少年が精神的に成長していくにしたがって、31人のヒロインの好意を一手に引き受けるハーレム型のラブコメとしても駆動し始めます。中学生と小学生、生徒と教師というタブー感も相まってヒロインたちの道ならぬ恋に感情移入して彼女たちを応援していたファンも多いのではないでしょうか。

 この、世界の謎をめぐるグランドストーリーと、学園を舞台にした恋の鞘当てという2本柱がガッチリと噛み合い相互に好影響を与えていたのが「ネギま!」という作品の最大の魅力でした。同時期の作品である「コードギアス反逆のルルーシュ」などもそうですが、一見して相反するような舞台設定を組み合わせるという手法は、あえてベタをやるためにとても有効なんですね。

英雄譚から群像劇へ 少女達の成長物語

 そうした中で作品にとって大きな転機となったのは、ファンの間で第二部とも言われる魔法世界編ですね。夏休みの小旅行という、今までの延長上のお話かと思っていたらいつの間にか世界を巻き込む一大事件へと展開し、そのまま最終回までなだれ込んでしまった…。そういった印象でイマイチ乗りきれなかったという人も多かったのではないかと思います。しかし私はここで大きく舵を切ったからこそネギまという作品は稀代の傑作となったと思っていますし、それは連載当時乗り損なった人であってもあらためて単行本で読み返すことでまた違った感想が出てくるのではないかとも思っています。

 ひとつ、重大なポイントを挙げるならば、第2部「魔法世界編」の主人公は実はネギくんじゃないんです。世界の謎に迫りスケールアップしていく中でネギくんは次第に超人的な戦闘能力を身ににつけていきます。これはジャンプ的な王道のバトル漫画の宿命的な構造で「強敵が現れる」→「修行してパワーアップ」→「さらなる強敵が」というサイクルを繰り返すことで主人公の強さが天井知らずのインフレ化を起こしてしまうんですね。そして一旦主人公の能力が上がりきってしまうと、どんな敵が出て来ても主人公ひとりで解決できてしまう、物語としての「熱的死」を迎えてしまうんです。

このサイクルを逃れるために多くの作品が世代交代や能力のリセットを試みてきましたが、このネギまという作品もまた違ったアプローチで物語の「熱的死」を回避したんですね。

 「ネギま」のとったアプローチというのは「まだネギ少年の成長が途上のうちに他のキャラクターの成長物語を同時並行して描いていく」というものです。魔法世界編というのは、31人のヒロインそれぞれが、自らを主人公とした別の物語を展開するための大仕掛だったんです。

 分かりやすい例を上げれば魔法世界編に入ってすぐ、同行の女の子たちを散り散りバラバラにしてしまったこと。これによって少女達は、ネギくんに頼ることなく自分の力で道を切り拓く物語を駆動することを余儀なくされるんですね。特にネギくんと恋の鞘当てモードに入っていた宮崎のどか綾瀬夕映といったキャラクターは魔法世界で自分たちだけの仲間を作り、生き抜く力を身にいつけていきます。

  その一方でネギくんは実に少年漫画らしい超人的成長を遂げて、世界最強といって差支えのない力を身につけるわけですが、にもかかわらず物語の帰結がネギくんだよりではない「みんなで世界を変えていく」という着地を迎えられたのは魔法世界編がネギくん一人の物語ではなく、多数の物語が同時並行して進行する群像劇として描かれていたからだ、と考えています。

智恵と勇気の物語

 ところで私は魔法世界編を読んでいて、これってすごく「大長編ドラえもん」っぽいなーなんてことを思っていました。それは、全体に通底するSF的な仕掛けもそうなのですが、夏休みのほんのちょっとした冒険が世界を巻き込む大事件に発展していくという導入、そしてネギくんが少女達に与える超強力な魔法アイテム「アーティファクト」がどうしてもドラえもんひみつ道具を連想するんですよね。例えば決戦で大きな役割を果たした村上夏美アーティファクト「孤独な黒子」を見てドラえもんの「石ころ帽子」を連想した人は多いんじゃないでしょうか。

 この、超強力な魔法アイテムと、それを使うのがごく普通の中学生というギャップもまたネギまという作品の妙味だったなあと思います。世界を救う使命があるわけでも、命を懸ける覚悟があるわけでもないごく普通の女の子たちが、今それを出来るのが自分しかないから、あるいはその仄かな恋心を原動力にして、ほんの少しの知恵と勇気で脅威に立ち向かうという構図が本当に素晴らしかった。

同時に存在する無数の平行世界

 ネギまはまた、平行世界を取り扱った物語でもあります。それは未来からの使者超鈴音の登場に始まり、最終回まで繋がる壮大な仕掛けなのですが、この並行世界の存在もまたネギまという作品の重要なテーマのひとつです。

 一般にタイムマシンとして認識されている超鈴音の未来技術「カシオペア」ですが、これは最終回で明示されている通り並行世界移動技術なんですね。つまり、超の渡った世界は全て、同時に存在している。超の元いた世界も、神楽坂明日菜が100年の眠りについた世界も、そして最終回で提示された世界も、ループ的な閉じた輪の中の世界ではなく、全てが「実際にある世界」であり、それぞれがそれぞれの未来へと続いているんです。

 ここでもやはり連想するのは「映画ドラえもん のび太の魔界大冒険」ですね。もしもボックスによって呼び出された平行世界。危機に瀕して一旦は元の世界へ帰ってきたのび太たちが、それが「なかったことにならない」ことを知って、並行世界を救うためにもう一度立ち上がる、という構図は本作で超鈴音が取った立場と共通する部分が多くあります。

 平行世界に渡って、その世界に影響を与えても、元の世界に直接の影響は何もない。だとしたら、超鈴音はいったいこの世界で何をしようとしていたのか。それを考えることはネギまという作品を考える上でとても重要なことだと考えています。いったい彼女は何をしようとしていたのか。

 私は、これは「シミューレション」だったのではないか、と考えています。超のアドバンテージは未来を知っている、ということです。未来を知った上で、起こるべくして起こる悲劇を回避するために方策をめぐらし行動する。それは現実の問題を解決するためにとても有効な方法です。超は、平行世界という超精密なシミュレーターを使って、それをやった。その結果として元いた世界を救う手がかりを得たからこそ、彼女は満足して帰っていったのではないか、そう思っています。

 では、シミュレーターとして利用された、超の都合に振り回された世界に対して何の責任も取らなくていいのか。それを考えると、れが最終回直前の、そして最終回で暗示された超のとった行動の意味が見えてきます。彼女は、彼女が関わった全ての世界を、現実に存在するものとして関わり続けているんですね。

 これは、平行世界というSF的な設定の上のお話ですが、これに類似した構造は実はネギまという作品の各所に散りばめられています。現実世界と同時並行して存在する魔法世界というのがまずそれですね。本来、自分たちとは関わりのない別世界を否定せず、それに積極的に関わっていくことを肯定する、それぞれの世界にそれぞれの人の数だけ物語が存在する、それを想像してもらうこと。それこそが「ネギま」という作品の根幹的なテーマなのではないか、そう考えています。

メタ視点から見た「ネギま

 それは、ネギまという作品をメタ的な視点から見た時、一層強く浮き彫りになります。赤松先生自身のメディアミックスに関わっていく姿勢、二次創作を自ら楽しむ姿勢そのものが、ネギまという作品のあり方と重なって見えるんですね。

 最終回を読んで、読者に丸投げしたかのような曖昧な結末、と感じた人も多いのではないかと思うのですが、実のところよくよく読み込むとそのほとんどはほとんど解釈のぶれない範囲で読み取る事のできるっ物だったりします。しかし、それはあくまで最終回で提示されたこの世界での話であって、ほんのちょっとしたきっかけでまったく違う未来を迎える別の「ネギま!」世界の存在を許容している、ということでもあります。アニメ、ドラマ、映画、あるいは公式二次創作やファンによる二次創作。それらを全部「本当にあったこと」にした上で、赤松先生自身が考える理想の未来像を提示したとても感慨深い最終回だったと、私は思っています。

キャラクターとともに歳を重ねていく

 もうひとつ重要なのは、こうした平行世界は、同じ時間を何度も繰り返す閉じたループ構造を想起させがちなのですが、ネギまにおけるそれは閉じることなく未来へとつながっている、ということです。それを象徴するのが、最終回直前に7年の歳月を重ねたキャラクターたちですね。

 最終回直前、何故7年の月日を重ねたのか。これは、作中本編で描かれた2年間と併せて9年、つまり連載期間の9年と併せているんです。連載当初から読み始めた読者と同じ数だけ、作中のキャラクターたちも歳を重ねていく。それは、これから10年先20年先も同様に歳を重ね、それぞれの人生を想像させるに足る描きです。

 作中でくり返し語られる「わずかな勇気」というキーワード。知らない世界へ飛び込む勇気。変わっていくことを受け入れる勇気。そして世界と他者を想像する力。それを余すことなく描ききった稀代の傑作でした。

 赤松先生、9年間本当にお疲れ様でした。そしてこれからもまた、彼ら彼女らを末永く愛してあげてください。いち読者として、彼ら彼女らと同じ時を過ごせることを感謝しつつ。