天気の子 変わっていく世界を受け入れるということ

新海誠の最新作「天気の子」が公開されて早1ヶ月が過ぎた。気が付けば繰り返し映画館へと通いつめ、すっかりこの物語に魅了されてしまっている。いったいなぜこれほど心を奪われてしまったのか。以下、今思っていることを物語の核心に触れる部分も含めて一切遠慮なく書き綴るので未見の方はご了承いただきたい。 

 

水に沈む東京の美しさ 

まず何と言ってもエピローグが素晴らしい。降り続く雨によって東京の東半分が水没してしまった俯瞰ショットからの3年後。状況に戸惑う主人公・帆高と対照的に、変化に順応し日常を謳歌する人々が軽やかなテンポで描かれる。「元に戻っただけ」「最初から世界は狂っていた」そう言って慰める大人たちの言葉を受けてもなお思い悩む帆高は、美しく輝く世界に向かって祈る陽菜を目の当たりにし、この世界でまっすぐに生きていく決意と確信を得る。 

この一連のシーンが本当に素晴らしく胸を打つ。特にラストシーンの美しさは、映画史に残る名シーンと言っても過言ではないだろう。 

 

賛否両論の本当の意味 

新海誠は、映画公開前からしきりに「賛否両論になるものを作った」と宣言している。これを「世界を取るか、彼女を取るか」という二者択一と受け取るのは、私は間違っていると思っている。おそらく本来想定された設問は「世界を変えずに彼女を救うか、世界を変えて彼女を救うか」なのではないか。 

天気の子という物語はあらかじめ、世界が変わる、変わってしまうということを前提に組まれた物語なのではないか。陽菜や帆高が行動しなくてもいずれ世界は変わってしまうし、仮に陽菜が犠牲になったとしてもそれは一時の延命でしかない。望む、望まないに関わらず世界は変わってしまうんだということを観客に突きつけることこそが、新海誠が真にこの映画でやり遂げたことなのだろう。 

我々の住むこの世界は、ある日突然一変してしまう可能性を常に秘めている。大地震や火山の噴火はいつか来る巨大災害として元々認識されているし、気候変動や環境破壊に伴う地盤沈下や海面の上昇も現実の問題として危惧されている。天気の子のラストは、明日も今日と同じ日が続く保証がないという事実を否応にも突きつけてくる。 

 

シン・ゴジラ」と「君の名は。」と  

娯楽映画でそんな問題提起は見たくないよ、全部元通りハッピーエンドでいいじゃないか、という声ももちろん理解できる。新海誠の前作「君の名は。」は実際そういう映画として世間に受け止められて、あるいはその読み筋に基づいて批判されたりもしていた。 

 しかし、改めてよく思い返してほしい。「君の名は。」は何もかもが元通りになる話ではない。飛騨の山奥のある集落が跡形もなく消滅してしまうという、大きな爪痕を残しているということを。 

 

消えた村―糸守町―は架空の集落ではあるし、あれだけの災害で死者が一人もいないのはご都合主義すぎる、そもそも山奥の寒村が消えても我々の生活には特に影響はない…様々な理由で、一つの集落が消滅したという出来事は観客に重さを持って受け止められなかったというのは事実だろう。ところで「君の名は。」が公開された同じ夏に、もう一本の大ヒット映画が公開されたことを覚えている人も多いのではないか。庵野秀明の「シン・ゴジラ」だ。 

シン・ゴジラ」はまさに東京を舞台にし、東京の西半分を破壊し尽くし、原状回復不能な状態でゴジラと人類が共存する世界を我々に突きつける映画だった。新海誠が天気の子の脚本を書きあげるにあたって、この映画の存在は少なからず念頭にあったのではないか。観客を当事者にするには、東京を変えるしかないんだ、と。 

 

変わりゆく世界を記憶に留める 

新海誠は、もともと変わっていく世界を美しく描く作家だった。過ぎ去っていく景色は二度と元に戻ることなく、ただただ美しく記憶に留められる。「君の名は。」以前の新海誠はそれを男女の出会いと別れという形で物語に落とし込んでいた。「君の名は。」における糸守町の消滅は、そういう二度と戻らぬ思い出の景色を描きたいという新海誠の思いが溢れた結果なのではないかと今では思う。そしてその情熱は「天気の子」では東京の水没という、より強烈な形で我々の前に突きつけられることになる。 

 そう思って改めて「天気の子」を見ると、そこに描かれる東京の多くは、2019年の今でしか見ることが出来ない、失われていく景色が描かれていることが良く見えてくる。物語において重要な役割を果たす廃ビル・代々木会館は、既に解体工事が始まっており、今年の内には姿を消してしまう。印象的に登場するバニラの求人トラックや漫画喫茶、歌舞伎町の薄汚れた裏路地も、やがて姿を消すだろう。 

 天気の子は東京の猥雑な部分を描いていることでも耳目を集めているが、現在の東京の中で消えゆく景色を追った結果が、そういった猥雑な風景になったのではないか。そして実際にそれらの景色は美しい哀愁とともに永遠にスクリーンに焼き付けられる。 

 

感情移入できない主人公  

天気の子の主人公である帆高は、感情移入がしづらいという批判もまたよく耳にする。実際それはその通りで、帆高をこういったキャラクターに造形したことは「天気の子」という作品において、もっとも大きな挑戦だったのではないかと思っている。 

東京を海に沈める。それもただ沈めるのではなく、その世界で人々の生活が続いていき、主人公もまたその世界に生きることを決意することに説得力を持たせるためには、今あるこの世界に違和感・疎外感を持っているキャラクターである必要があるという逆算があったのではないかとも思う。ともかく、帆高という少年は常識ならこうだろうという予想にことごとく抗い逆行する人物として描かれている。 

その姿はとても危うく、一歩間違えば社会の闇へと転落するのではないかというスリルがある。この、徹底的に間違える様子が、別の選択もあったのではないかという想像を喚起し、ある種の人たちにまるでゲームをプレイしているかのような幻想を抱かせたのは、狙ってのことではなく偶然の産物なのだろうとは思う。 

帆高は本当に面白いキャラクターで、一般常識は大きく欠けているが反抗的というわけではなく、好奇心とその場の感情に衝き動かされる様は16歳の少年としては明らかに精神年齢が幼く見える。そのイノセントさは愛嬌にも繋がっており、彼に手を差し伸べる人たちが現れることにも不思議な納得感がある。その帆高に手を差し伸べる人たちもまた、社会の辺縁で踏みとどまっているというのも、面白い。 

 

社会の辺縁に踏みとどまる人々 

帆高に文字通り手を差し伸べて救い上げた須賀も、帆高に手を引かれて救われた陽菜も、社会の辺縁に生きている。それは例えば是枝裕和「誰も知らない」入江悠の「ギャングース」といった完全なアウトサイダーの世界ではないのだけど、明らかにそちら側の世界が垣間見えるギリギリの淵に踏みとどまっている人々として描かれている。都市の秩序の中で生きる大多数の人々が帆高の存在を無視し、あるいは厄介者として排除しようとする中で、彼らだけが帆高を見つけ、手を差し伸べることが出来たのは、やはり意味のあることなのだろうと思う。  

その点において、劇中では帆高たちと対立することになる警察組織や児童相談所といった存在も本来的には敵ではなく彼らを見つけ社会の内側に留めようとする善なる存在として最終的に和解に至っているのも、この映画をとても心地よく感じる要素の一つだったりもする。 

まっすぐに生きていれば零れ落ちそうになっても手を差し伸べてくれる人たちはいる。それは理想論ではあるけれども、それくらいは信頼できる社会であってほしいという願いでもある。 

 

変わっていく世界を受け入れるということ  

「天気の子」で最終的に描かれる世界の変化は、当然にそこに住む一人一人に多大な負担と、取り返しのつかない喪失を与えるものなのは間違いない。その変化はしかし、望もうと望むまいといつの日か突然やってくる不可避なものでもある。 

一方で、変わってしまった世界に生まれ落ちた子供たちにとっては、それは生まれた時からある当たり前の景色で、自分たちの意思で良くも悪くも変えていけるものなんだと見ることも出来る。 

今を生きる大人たちには、失われていく美しい景色を記憶に留め、かつ新しい世界を切り開いていく子供たちの未来を祝福していくという課題が課せられているのだろう。決して簡単なことではない。現実は物語よりもずっと複雑で、油断をすると生きづらさで窒息しそうにもなる。人の心は多種多様で孤独感に苛まれる日もある。 

それでも、映画館を出て空を見上げ、自分の心が世界に繋がっているかもしれないと思えたのなら…。まだ語るべきことはたくさんあるが、いったんこの言葉で締めくくりたい。 

 

僕たちは、きっと大丈夫だ。 

任天堂は再び「ゲーム人口の拡大」を成せるのか

大きな驚きをもって受け止められた、任天堂DeNAの業務提携。
これについては人それぞれ、様々な見解があるかと思いますが、私はとても力強く前向きなものであると受け止めています。

その大きな理由は、会見の中で岩田社長の口から「ゲーム人口の拡大」というキーワードを久しぶりに聞くことができたことです。

任天堂株式会社 株式会社ディー・エヌ・エー 業務・資本提携共同記者発表

任天堂を躍進させた「ゲーム人口の拡大」というスローガン

「ゲーム人口の拡大」は2002年に岩田聡氏が社長に就任して以来の任天堂の一貫したスローガンです。
しかし、ここ数年の決算説明会では「QOLの向上」「任天堂ユーザー層の拡大」という言葉に取って代わられ、大きな戦略目標からは外されてしまっている印象を受けていました。

岩田社長はニンテンドーDSWiiによって今までゲームに興味のなかった幅広い層にアプローチすることに成功し、全く新しい市場を創出することでゲーム人口を飛躍的に拡大することに成功しています。

その流れはその後のソーシャルゲームの台頭へと引き継がれ、今や歴史上かつてないほどゲーム人口が拡大した時代と言って過言ではないでしょう。「ゲーム人口の拡大」という看板を下ろしたことは、その流れの中で任天堂の存在感がだんだんと失われていったことの象徴のように感じ、とても寂しく思っていただけに、今回再び岩田社長の口からその言葉が出た時には、驚きと興奮を感じずにはいられませんでした。

しかし、現実問題として、スマートデバイスがここまで普及し、様々なタイプのゲームが日々生まれ続けている現在、これ以上の「ゲーム人口の拡大」を目指すということはどういうことなのでしょうか。

その鍵は、現在の主流である「F2Pによるアイテム課金」モデルが取りこぼしている層を取り込むことにあると、私は考えています。

岩田社長の現状認識についての疑問

その前に、記者会見で述べられた岩田社長が語った現状認識について、いくつかの疑問を呈しておきましょう。

  • スマートデバイスでは、コンテンツの新陳代謝が激しく個々のコンテンツの寿命が短くなりがち
  • 競争環境が激しく、持続的に成果を出しているコンテンツ供給者は全体の中で本の一握り
  • 成功しているコンテンツ供給者は単一のヒットタイトルに依存している構造になっていることがほとんど

会見の中で岩田社長は上記のように述べていますが、実際にスマートフォンアプリで持続的に成果を出しているデベロッパーの数はコンシュマーゲーム全盛期と比較しても明らかに増えており、その中には複数のヒットタイトルを抱えているところも少なくありません。
またコンテンツの寿命という意味でも、一度成功を収めたタイトルが価値を失うという状況は、例外的にいくつかの事例がある以外は基本的に発生していません。

F2Pアイテム課金モデルの強みと課題

F2Pのアイテム課金モデルは、高額課金をしてくれる少数のコアユーザーとそれにぶら下がる、コアユーザーの10倍以上のゲームプレイヤーを囲い込むという形で、ゲーム人口の拡大に寄与してきました。

このモデルが何よりも優れているのは、数万人〜数十万人程度の、比較的小規模なユーザーを囲い込めば、それで商売として成立するという点です。どんなにニッチなジャンルであってもコアユーザーの掘り起こしに成功すればサービスを持続することが出来る。また、その中から数百万人〜数千万人にリーチ出来るようなゲームが生まれれば、莫大な利益を生み出すこともある。
競争環境が激しくなり、入り口に立つ難易度は数年前に比べて高くはなっているものの、一度ファンを掴んでしまえば十分に勝機のある、魅力的な市場であり続けているのは間違いありません。

一方でこのF2Pアイテム課金モデルは、ある問題点を抱えています。
それは、ターゲットとなるユーザー層が、高額課金コアユーザーのボリュームゾーンである「20代〜50代」に絞られてしまうという点。
F2Pアイテム課金による高額課金が未成年者に悪影響を与えているという社会認識も相まって、作り手はますます未成年者向けのゲームから遠ざかる傾向にあります。

任天堂は未成年向けゲーム市場を目指す

任天堂がスマートビジネス市場に打って出て更なるゲーム人口の拡大を目指すとしたら、狙いとするのは間違いなく、この、取りこぼされた未成年層でしょう。
任天堂は旧来から低年齢層向けゲームに強みを持っており、過去の資産や企業ブランドイメージを考えても自然な流れに思えます。

しかし、この層を取りに行くにあたっては解決しなければならない大きな課題があります。それは「高額課金ユーザーの存在に頼らないF2Pモデルは構築しうるのか?」ということです。

現在既に存在するもので言えば、Kingの「Candy Crush Saga」等は、莫大なユーザーを囲い込むことで、1人あたりの課金額は小さいまま成功している例と言えます。
しかしこれは岩田社長が否定している「単一のヒットタイトルに依存した構造」そのものであり、多様性という意味でもあまり歓迎できる方策とは言えません。

また、任天堂も自社プラットフォーム上で様々なF2Pモデルの模索をしていますが、今のところ決定的に上手くいったものというのはまだ存在していません。

果たして岩田社長がどういった腹案の上に勝算を描いているのかは現時点ではうかがい知ることは出来ませんが、新しいビジネスモデルの発明なしに「ゲーム人口の拡大」が更なるステージに上がることは難しいのではないかと考えます。

DeNAが果たすべき役割

ここで今回任天堂とパートナーシップを結んだDeNAについても触れておきましょう。

「ガチャ」で大儲けしたモバゲープラットフォームの運営会社として広く知られるDeNAですが、一般に印象されている姿と違い、DeNA自身はあまり「ガチャモデル」に積極的ではなかったという歴史があります。

そもそもモバゲー躍進の原動力になった「怪盗ロワイヤル」はガチャモデルではないんですよね。ソーシャルゲームプラットフォームのもう一方の雄だったGREEとのライバル関係の中でガチャモデルも取り込んではいったものの、それ以外の課金手法についても様々に研究・実施してきたという実績がDeNAにはあります。

もちろんそれは、任天堂が目論んでいるであろう新しい課金モデルとは違い、あくまでも「青天井の課金モデルのバリエーション」ではあるのですが、そういった研究や実験と、任天堂が持つ知見とが交じり合った時、現実的でスケール可能な「天井のあるアイテム課金」を提案をしてくれるのではないか、そういう期待もあります。

これからの新しい10年に向けて

今回の協業についてはその他にも、

  • 任天堂DeNAが作る新プラットフォームが、AppStoreやGooglePlayといった、現在のゲームファンやゲーム製作者に取ってベストな環境とは言い難いそれに対抗しうるものになるのか
  • 新ゲーム専用プラットフォームとして構想されているコードネームNXが、現在の貧弱な入力装置しか持たないスマートデバイスに対抗し置き換え可能なものになりえるのか

といった興味もありますが、これに答えが出るのは早くても1年後、2年後という話になってくると思われますので、今回はここで筆を置きたいと思います。

何はともあれ、年内にもリリースされるであろう協業第一弾タイトルでどのような提案が行われるのか、楽しみに待ちましょう。願わくば、これからの新しい10年のゲームの形が変わるような何かが生まれることを、切に期待しています。

セブンズストーリー終了に寄せて

あるソーシャルゲームのサービス終了が決まった。

日々是遊戯:Mobage「セブンズストーリー」終了発表でソシャゲクラスタに衝撃 ま、まだ今からでも間に合うぞ! - ねとらぼ

継続的なアクティブユーザーが数十人しかいない小規模なゲームの終了をニュースとして伝えてくれたねとらぼさん、ありがとう。

セブンズストーリー。ラクガキのようなイラストと、眼を見張るような先進的なゲームデザインが組み合わさったこのタイトルにはm昨年10月に出会って以来、本当に驚かされっぱなしだった。

プロダクトとしては完全に失敗しているこのタイトルに、何故これほどの称賛が集まっているのか。

その一端を伝えるために、昨年の冬コミ(C85)のサークルそれいゆさんの新刊に寄稿した記事を転載したい。

※サークルそれいゆさんの本はこちらで通販受付しています。転載ご快諾ありがとうございます。

店頭委託&通販委託開始のお知らせ : モバクソゲーサークル「それいゆ」


セブンズストーリーがモバゲーの歴史を変える(モバクソゲー・イヴ寄稿)


モバクソゲー部の活動がなければこのゲームに出会うことはなかったかもしれない。まずそのことに感謝したい。

10月某日、いつものように隣人さんから愉快なスクリーンショットが送られてくる。モバゲーの新着「セブンズストーリー」。MSX時代のフリーソフトを思わせる味のあるな画風が否が応でもモバクソ魂を刺激し、実際始めてみれば課金ガチャでノーマルガチャと同じキャラが出てくるソシャゲなのに本格的なタクティカルバトル何故かステータス画面でウサギを育てる等、独特すぎるシステムが目に飛び込んでくる。

これは久しぶりの大型案件だあ!と小躍りして楽しんでいたのだが、この時点ではまだ、いつものよくあるシステムは斬新だけれども中身は残念なモバクソゲーのひとつ程度の認識だった。それが遊び続けるうちに実はこれ、普通に面白いんじゃないかということがわかってくる。

まず最初に引きこまれたのが、メインストーリーの大胆な展開。一般にソーシャルゲームでは骨太のストーリーは語りづらいと言われ、ストーリーと称しつつも当たり障りのないエピソードの積み重ねでしかないものがほとんどなのだが、セブンズストーリーでは5話目で主要登場人物が非業の死を迎えるという急展開をし、更に9話目まで進んだところでゲームタイトルの意味が明かされ、そこから急転直下の大冒険の幕が開ける。目指すべき目的が明確に表明されたソーシャルゲームの常識を覆すこの展開は、よし、この物語の結末を見るまではゲームを続けるぞと決意させるに十分のものだった。

意を決したのちに改めてゲーム全体を見回してみると、それまで風変わりに思っていたゲームシステムも実は非常に考えぬかれた設計であることが見えてくる。考えてみると、ここまで独自の仕様ながら、ゲームを進行するにあたってストレスらしいストレスを感じないという時点で凡庸ならざるものがある。特に風変わりに過ぎるウサギの育成がこのゲームにおいて重要な役割を果たしていることに気づく。

ウサギは、主人公たちと共に戦ってくれるパートナーでもあり、育成してアクセサリー等で着飾ることが出来るペットアバターでもあるというもの。他のキャラクターは実のところ素人の落書きレベルなのだが、ウサギだけは、一見してヘタウマなセンスのキャラクターではあるものの、デザインとして完成度が高い。また多彩な仕草でアニメーションをし、見ているだけで楽しいものになっている。

このウサギで特筆すべき点のひとつは、戦闘中はAIによるオート行動を取り、ゲーム序盤でプレイヤーが操作に慣れていない間はパーティの最大戦力として活躍するが、プレイヤーキャラクターが育ってくると脇役へと回りあくまで副戦力程度に収まっていくというところ。このモバゲータイトルとしては斬新なシステムにストレスなくプレイヤーを慣らすためのナビゲーターの役割を自然にこなしている。個人的に今まで数百本のモバゲータイトルに触れてきたが、このチュートリアルアプローチは前代未聞で、意図した設計としたら驚愕すべき先進性ということになる。

更に遊び手を驚嘆させたのが、リリース1週間後の大型アップデートで導入されたギルドガーデンシステム。これはギルドみんなで農場を管理し、ウサギに与えるニンジンを生産するというシステムなのだが、農作業をするウサギのアニメーションがとてもかわいらしく、また収穫されるニンジンの奇抜さからセブスト愛好者を急増させることとなる。

カブのように丸々と太ったデカにんじんは序の口で、ナスそっくりの形をしたナスにんじん、食欲増進効果のある唐辛子にんじん(もちろん見た目は唐辛子)、滋養たっぷりの仙人にんじん(見た目は高麗人蔘)、果てはチョコバナナのようにチョコがかかったチョコにんじんまでが畑で取れるというオモシロ具合に一日中畑を耕すセブスト中毒者が続出。ここまで来るとこのゲームが本当に面白いということを疑うものはもはや誰もいなくなる。

セブンズストーリーのシステムの個別の要素の良さについて語り続けると紙面がいくらあっても足りないので割愛するとして、もう一つ特筆すべきは運営のレスポンスの驚異的な速さだ。細かなチューニングや機能追加がほぼ毎日行われ、Twitter上で上がった改善案を「ご意見BOX」に投稿すると、ものによっては数時間と待たずに対応が完了しているという神速ぶりは、ソシャゲ関係者であれば驚愕を超えて畏敬の念を覚えずにいられない。

セブンズストーリーがどうしてこのイラストでリリースすることになったのかは知る由もないが、推測を重ねれば、リリース直前で中止になったプロジェクトを開発者が引き取って、独立してリリースしたのではないかと思われる。

システム全体の整合性の高さ、またこの改善対応の的確さから考えても、これが個人の趣味レベルで作られたものではなく、紛れもない歴戦のプロによる作品であることは間違いがない。もしこの人材とタイトルを手放した会社は後悔をしたほうが良いとは思うが、独立してなければこれほどまでの改善のレスポンスはなかったかもしれないと考えると、人間万事塞翁が馬である。

セブンズストーリーがモバゲー衰退期の徒花になるのか、それとも新しい時代を切り開く嚆矢となるのかはまだわからない。しかしこれだけははっきり言える。セブンズストーリーは間違いなくゲームの歴史の1ページに刻まれるべき革新的なタイトルであると。

その歴史の生き証人になりたければ、今からでも遅くない。さあ、モバゲーに登録してセブンズストーリーをはじめよう!!



我ながら、なかなか大げさに書いたものだとは思いつつも、今も基本的には思うところは変わっていない。
もちろん終了してしまうことは残念ではあるのだけれども、提供元の株式会社Withさんはお知らせにて次回作への意欲を見せており、この経験を生かしてどのようなタイトルが出てくるか今から楽しみで仕方なかったりもします。

セブンズストーリーのサービスは5月30日までということで、残すところ2ヶ月ちょっとですが、今からでも全コンテンツを味わうには十分な期間があります。ほんのちょっとでも興味がわいたなら、今からでも遅くない。一緒に、歴史の証人になりましょう!

Mobage(モバゲー)by DeNA

「まおゆう」原作とアニメ版の読み比べのススメ

2009年に著されて以来、書籍、コミカライズ、ドラマCDと幾度も版を重ねてきた物語のアニメ版が地上波テレビ及びニコニコ動画でいよいよ放送が始まりました。「まおゆう魔王勇者」の原作にあたる2chスレッド『魔王「この我のものとなれ勇者よ「勇者「断る!」』は今もまだまとめサイト等で読むことができます。アニメ版は原作を下敷きにしつつも映像によって情報が足された分、さまざまな翻案がなされているのですが、その違いについて見比べ、読み比べて気付いたことについて、少々解説をしてみようかなと思います。なお、これはあくまで解釈の一つであって、地の文がなくセリフで全ての情景描写が行われるという原作の性質上、読み手によって受け止め方に幅がある作品であるということはあらかじめ断っておきます。

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 - ゴールデンタイムズ

挿入された登場人物たち

まず大きく目を引く改変は、魔王と勇者の掛け合いの合間合間に他の人物の会話が挿入されている点ですね。アニメ1話で語られた部分は原作ではすべて魔王と勇者2人だけの掛け合いなのですが、魔王による戦争経済の解説部分が大幅に省略され、それぞれ別の登場人物のセリフとして紹介されています。これは魔王が語るこの戦争に対する認識が魔王独自のものではなく、この時代の支配階級にとってなかば常識となっていることを表現しているのだろうなと考えます。

また、これは書籍版で既に追加された要素ではありますが、表題タイトルのセリフ『魔王「この我のものとなれ勇者よ」勇者「断る!」』の前に導入として世界の状況、勇者の仲間たちの存在が明かされている点も大きな違いですね。これはオープニングアニメも含めてこの物語が壮大な群像劇であることを印象付けるために必要な情景描写であると思います。

大幅に削られた魔族側の事情

追加された情景がある一方で、大きく削られた部分もあります。特に目立つのは魔王の自身の限界を表明するセリフ、魔族側の事情に関するセリフの多くが削られている点です。原作における魔王は自身の知識をひけらかしつつも、自身にできることの限界を示す言葉が何度となく挟まれています。例えば戦争を終わらせることができない理由を語った後に原作にはこんなセリフがあります。

魔王「まぁ魔王の云うことだから嘘かも知れないけどね」
勇者「嘘なのか?」
魔王「少なくとも私は本気だ。もしかしたら避ける方法があるかも知れないけれど、私は知らない」
勇者「……」

また、「あの丘のむこうが見たい」という魔王に対し原作では以下のような問答があります。

勇者「……勇者になりたいのか?」
魔王「近い。でも、違う。だって私は学者なのだろうし、いまのこの身は魔王だ……」
勇者「……」
魔王「やってて幸せとは云えないけれど責任を感じるし他の誰かに押しつける気はない。
 勇者じゃない私が、勇者になりたいなんてそんな夢物語で時間を浪費するつもりはないんだ。けれど」
魔王「見たことがない物は、見てみたい」

魔王の知識の限界、魔王自身にできることできないことについての率直な表明をするこれらのセリフが軒並み削られている。また魔族側にも様々な派閥があり、魔王の支配体制もけして磐石ではないといった語りもバッサリと省かれている。これによって一見して魔王の語りの正しさが強調されているようにも見えますが、一方でそのもっともらしさがかえって胡散臭さを感じさせるようにも見え、なかなか興味深いところです。この後の展開による魔王の信念の変化はこの物語の大きな魅力のひとつなのですが、その落差を感じさせるため、あえてこの一話では留保を挟む要素を伏せたという可能性もあり、今後どのような描写を盛り込んでいくのか注目ですね。

幻影ランプによる情景描写

アニメならではの変更点が、魔法のランプによる情景の描写の強化ですね。会話のみで進められるという原作の性質上、映像にした時に場面転換の少なさがネックになるという危惧があったのですが、この手法はなかなか見事です。原作ではかなり後半になって語られる勇者の幼い頃の思い出、勇者と出会う前の魔王の痴態について第一話に盛り込んできたのも面白いですね。第1話からキャラクターのバックボーンの片鱗を見せるというのは、魔王と勇者というプレーンすぎる人格に対するアクセントとしてうまく機能しているように思います。上記の魔王の能力の限界の語りが原作においては魔王のチャーミングさを補強しているところもあり、そこを削った分の補完という意味合いもあるのかもしれませんね。

挟まれた勇者のセリフの意味

さて、この第1話のオチとなっている魔王の痴態の直前に、実はなかなか興味深くも大きな改変点がひとつあったりします。
原作においてはこの場面の最後を締めくくる魔王のセリフの前後に、勇者のセリフが挟まれているんですね。

勇者「お前は覚悟は出来ているのか、魔王!」
魔王「もちろんだ。わたしは勇者と今後一生離れる気はないんだからなっ」
勇者「当たり前だ!」

上記はアニメ版のセリフですが、前後の勇者のセリフは原作にはまったくないものです。ここで勇者と魔王の主導権が入れ替わっているのが面白い。契約について多少の後ろめたさのある魔王に対して一度決意したことに対してはまっすぐ迷わないという勇者の性質がこの短いやりとりで表現されているんですね。

もうひとつ印象的だったのがアニメ版1話の最後を飾る以下のカットですね。

魔王の角が着脱可能というアイデアはもともとは最初期のまおゆう二次創作のひとつ、七積ろんち版の動画でもされていたものなのですが、今回のアニメでは魔王を象徴する角と対応するものとして勇者のヘアバンドを並べて、その二つを置いて旅に出るという場面で締めくくっているんですね。この1カットで、魔王と勇者が与えられた役割から逸脱して世界に立ち向かっていくという本作の方向性を見事に表している。これは本当に丁寧にシリーズ構成を考えた結果の改変なんだなあとしみじみと感心してしまいます。

以上、ざっくりとアニメ「まおゆう」と原作を読み比べながら感じたこと、考えたことを綴ってみました。これだけにとどまらず、読み手によって様々な発見、解釈があるのではないかと思います。もしアニメを見て心に残るものがあったなら、あるいは原作を先に読んでアニメ版の変更点にピンと来なかったりしたならば、両者を改めて見比べて読むことをオススメしたいですね。

今回のアニメ化は全13話ということで物語の途上までしか語られないことは確定していますが、そのあたりも含めて、今後どのような改変を行うのか見守っていきたいですね。

ニコニコ動画ZeroWatchプレイヤーの正しい使い方

 5月1日にプレミアム会員限定で公開され、激しい非難を浴びているニコニコ動画の新動画プレイヤー「ZeroWatch」。とりあえずもっとも大きな問題だったコメント入力欄の位置と動画説明文については担当開発者の休暇前に応急処置的な改善がなされてほっと胸を撫で下ろしています。きっと休み明けから本格的な改修に入ってくれることでしょう。

 とはいえ、もっとも大きな問題点が解消されたものの、このZeroPlayerは従来のニコニコ動画プレイヤーとはまったく異なる設計思想で作られており、それが多くの困惑を生んでいるように思います。そこでいったいこの新プレイヤーはユーザーのどういった使用を想定しているのか、その想定に基づいた場合どうすれば今よりも使いよくなるのかについて、私論ながら分析してみたいと思います。

http://www.nicovideo.jp/zero
http://blog.nicovideo.jp/2012/05/zerowatch_2.php

ZeroWatchの正しい設定

 とりあえず上記記事でも案内が出ていますが、コメント入力欄の位置変更と動画説明文の表示がデフォルトでは問題のあるままになっていますので、設定を変更しましょう。

デフォルトはこんな感じですが、

右下の歯車ボタンをクリックして、「コメント入力」と「その他」タブの該当箇所のチェックを入れればとりあえず使用に耐えるレベルになります。


動画タイトルが上にはみ出して半分かけてしまっているけれども細かいことはキニシナイ

設定が面倒くさい&もうちょっとどうにかならないか、という人は鳥居みゆっきさんが公開しているユーザースクリプトを導入するのも良いですね。こちらなら動画タイトルも見切れなくてイイカンジです。


ZeroFix is ZeroWatch of niconico fixer. ZeroWatchが改良するまでの暫定的なユーザースクリプトです。 タイトルの縮小、タグの複数段表示、市場エリアを投稿者情報に、コメント入力エリアを下に、フェードを無効化などの機能があります。 · GitHub


連続再生に特化したプレイヤー

 さて、ここまでした上でこのZeroPlayerとはどう付き合っていくのが好ましいのでしょう。それを考える上でひとつ興味深い記事があります。

まもなく公開「ニコニコ動画(Zero)」、川上・夏野氏が注目ポイント解説 -INTERNET Watch Watch
夏野氏:Zeroで最も大きく変わったのが動画の視聴ページ。現在、ニコ動ユーザーの平均滞在時間は1時間40分と言われているが、その中で最もよく使われているのが視聴ページ。ユーザーの滞在時間をもっと長くして、もっともっとニコ厨にしちゃおうというもの。

川上氏:ニコニコ動画のプレーヤーの外形は過去5年間変わっていなかったが、一から作り直した。最大の特徴は、動画を切り替えなくてもどんどん視聴できること。

川上氏:昔のニコ動はリアルタイム性がユーザーに支持されたが、ユーザー数が増えるに従って、負荷分散などの観点からリアルタイム感が減っていった。リアルタイムタグ編集は、それを一気に取り戻そうというもの。ニコ動は動画の「タグ戦争」が有名。タグを編集合戦したり、タグでチャットする人もいるが、それがリアルタイムに反映されるようになる。

 ニコニコ超会議を直前に控えた先行発表会でのドワンゴ川上量生会長と夏野剛取締役がそれぞれZeroPlayerについてコメントしています。夏野さんはユーザー滞在時間の延長への期待、川上会長はリアルタイム感の増加を期待しているといったところですね。それを踏まえた上で改めてZeroPlayerの機能を確認していくと、あるひとつの仮説が浮かび上がります。それは、この新プレイヤーは

動画の連続再生機能を徹底強化することで滞在時間を伸ばす事を意図している

のではないかと。実際その観点で連続再生のための機能を確認していくと驚くほど充実しています。次に再生される動画は画面下部にプレイリストとして自動的に表示され、ドラッグ&ドロップで順番を入れ替えたりリストから外したり出来る。動画を追加するのも検索画面に画面遷移することなく動画を再生したまま「次の動画」をどんどん挿入できる。いったん設定してしまえば連続再生で何時間でもずっと動画を流し続けることが出来る。これは、ニコニコ動画ZEROのもう一つの目玉機能であるNsenの方向性とも合致します。

Nsen - 歌ってみたチャンネル - 2017/05/19 04:00開始 - ニコニコ生放送

見ているだけではニコ厨にはならない

 連続動画再生プレイヤーとしては概ね申し分のないZeroPlayerなのですが、しかしそこには重大な見落としがあるように思えます。それは「ただ動画を見るだけならニコニコ動画である必要がない」ということです。既に存在する膨大なコンテンツを利用して他の動画共有サイトを圧倒するという目的であればそれでも充分事足りるとも言えるのですが、目的が夏野さんの言うとおり「ユーザーをニコ厨にする」ことにあるのであれば、ただ動画を見るだけでなく、動画説明文を読み、コメントをし、タグを付け替え、ニコニコ市場に商品を登録するといった一連の動画への介入をするまでにユーザーを誘導しなければそれは成し得ないだろう、ということです。そしてZeroPlayerはその観点から見た場合、残念ながら以前までのプレイヤーと比較しても非常に劣っていると言わざるを得ない。

 とりあえずコメントを書き込む意欲を激しく減退させるコメント入力欄の位置は改修されましたが、それがデフォルトで画面下部に固定されたとしてもまだ問題は山のように残っています。ひとつわかりやすいのは、動画の再生が終了した後の画面。

 次の動画に進む関係のリンクと画面上部の評価系のボタン以外がグレーアウトして今まで見ていた動画に対するアクションを取ることを暗に拒絶しています。リンク以外の部分をクリックすれば評価系ボタンが閉じてタグの編集が出来るようになりますが、「次の動画」は常に画面下部に表示されているのになぜそうまでして次に進むことを急かす必要があるのか。ニコ厨を育てる意図があるのならば、次の動画と同じくらいの大きさでもう一度再生ボタンを設置したっていいのではないか。評価系ボタンにしても画面上部の視線の届かない位置ではなく再生終了した画面に直接表示しないのはなぜなのか。実際前バージョンであるニコニコ動画原宿ではそうなっているわけです。そういったほんのちょっとした使い勝手の変化が、目立つ部分に対する不信感を増幅させている面は大きいように思います。

そこに哲学はあるか

 私はZeroPlayerの情報の見せ方のいくつかについてはとても興味深いなとは思っていて、例えば動画の再生数やマイリスト数をファーストビューから外したのは数字にこだわりがちなニコ厨の行動に変化をもたらすかもしれないなと思うし、左サイドにニコニコ市場を持ってきたことについても、市場をユーザーの重要な介入要素のひとつとしてみなしているのかな、と好意的だったりもします。そのいっぽうで新機能のコメントを「ニコる」機能が誤爆を誘発するほど簡単に出来るようになっているわりに動画そのものを評価するためのボタンは2クリックを要するなど、チグハグな点も散見されます。またTwitterFacebookといった外部コミュニティへの接続経路が弱いことも気になるところです。方向性そのものはとても興味深いと思いつつも、どうもそれが徹底されておらず、中途半端になっている部分があまりにも多く見える。

思案中/てってってー

 てってってーPも指摘していますが、何がしか明確に目指したい方向があるにも関わらず言われるがままに場当たり的に手直しをしてしまえばどっちとも付かない中途半端なものになってしまう危険性も高い。だからしっかりとひとつひとつの機能の意図を伝えてもらえれば、ユーザーサイドとしても、譲れる部分、譲れない部分というのがはっきりしてくるんじゃないかと。

 ぶっちゃけて言ってしまえば、ヘビーなニコ厨はUIが気に入らなかったらユーザースクリプトなりなんなりで勝手に手直しして自分たちの使い良いように勝手に使ってしまいますし、それはそれでいいんだと思います。問題は単純に使い勝手が良い悪いといううことでなく、新しくニコニコ動画に触れるユーザーにどういった行動を取って欲しいか、それを実現するにはどうしたら良いかという確固とした設計の哲学があるか否か、なのではないかなと。それさえハッキリと提示されれば、手厳しい意見だけでなく有益な意見、アイデアというのもどんどん集まってくるんじゃないかなと。他人の作ったものに遠慮会釈なく口なり手なりを出してくるというのが、そもそもニコ厨という存在なのですから。

ニコニコ超会議とはなんだったのか

 幕張メッセを借りきって2日間に渡って開催されたお祭り「ニコニコ超会議」。心配されていたような大きなトラブルもなく無事閉会したようですね。私は現地には赴かず、自宅でPCでの視聴のみの参加でしたが、現地組のレポートやPCの画面を通じて感じたことなどを少し書き留めておこうかと思います。

ニコニコ超会議2018 公式サイト
[ #chokaigi ] ニコニコ超会議2012関連記事まとめ | ギズモード・ジャパン
http://www.kotaku.jp/2012/04/nicocho12_roundup.html

ニコニコ動画を地上に再現できたのか?

 まず最初に開催前に超会議に抱いていたイメージを述べておくと、「出展者として準備している人たちは楽しそうだなー」「特定の目的があって現地へ赴く人は楽しみだろうなー」といったもので、これは裏を返すと、特にこれといった目当てもなく横断的に会場を見て回るにはおそらく適さないイベントだろうなと考えていました。

 この予想は、半分当たって、半分間違っていた。とにかくイベントの数が膨大すぎてPCから視聴するのにもジャンルを絞ってザッピングするしかない。ましてや現地に行ったら目当てのものを見るだけでほとんど手一杯になってしまうだろうというのはだいたい予想通りだった。予想と違ったのは、現地に行った人たちが目的のブースに辿り着くまでにすれ違った「異物」のカオスさに一様に驚いていた、ということですね。

 このジャンルごった煮のカオスさというのはまさにニコニコ的なもので、それは横断的にいろんなジャンルを普段からつまみ食いしている人にとってはニコニコ動画という場の前提認識なのですが、実のところ新しくニコニコ動画の視聴者になった人たちというのはこのジャンルごった煮感というのはあまり実感しておらず、自分たちの興味のある範囲内にしか目が届いていなかったのかなと。

 それがニコニコ超会議というリアルのイベントに参加した人は、自分がまったく興味のないジャンルにも膨大な人たちが群がり盛り上がっている様子を肌身に沁みて感じることが出来たのではないか。もしそうだとしたら、それだけでもこの超会議というイベントは成功だったのではないかと思います。

受け継がれる妖精三信

 この超会議のカオスぶりの象徴となったのが、今回3度目の来日となったニコニコの兄貴ことビリー・ヘリントン氏の存在ですね。

ニコニコ超会議2018 公式サイト
妖精哲学の三信とは (ヨウセイテツガクノサンシンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
「だらしねぇな」から始まる哲学―ガチムチ動画とビリー・ヘリントン人気についての一考察― - 未来私考

 「だらしねぇな」「歪みねぇな」「仕方ないね」この3つのフレーズの下にダメなものはハッキリとダメといい、素晴らしいものは惜しみなく賞賛し、その上でどうしようもないものには仕方ないねと許容する。その体現者たる兄貴が会場を練り歩くことで、兄貴を知る人達はその精神を意識せざるを得ない。超会議が大きな混乱なく終わることが出来たのは兄貴率いるビリークルーズ隊の存在が大きかったのではないかと思います。

ドワンゴ川上会長と夏野取締役が語る「ニコニコ超会議」 10万人を「ごった煮」の渦へ (1/5) - ねとらぼ

超会議はニコニコ動画のオリンピックを目指すべき

 とはいえ今回のこのイベント、様々な問題が浮き彫りになったことも事実で、例えば初日の一般入場入り口のモギリに3人しか配置せず3時間待ちの長蛇の列が出来るなど特に運営の会場での仕切りには非難の声が多く上がっていますね。これは明らかに準備不足で、また参加したジャンルも既にイベント開催実績のあるジャンルや企業ブース、あるいは技術部や車載クラスタ等もともと機動力の高く運営が渡りをつけやすいジャンルが優先されて、ニコニコ動画上で大きな存在感のあるMAD等の権利的に面倒くさいジャンルは概ねスルーされたという不満の声も聞こえてきます。これは短い準備期間の中でイベントを実現するために仕方のなかった側面もありますが、この体制のまま毎年開催する定期的なイベントにするというのはちょっとありえないな、と。上記記事で川上会長も言っていますが、少なくとも来年は開催しないという判断はとても正しいと思います。

 では超会議はこれっきりでもう開催しないほうが良いのか、と問われれば是非2回目をやるべき、とも思っています。今度はもっとしっかりと準備期間を置いて。より多くのニコ厨、より多くのニコニコ動画上のジャンルを巻き込んで。個人的には、オリンピックよろしく4年後の開催を宣言するくらいが丁度良いんじゃないかな、と思っています。
 4年後なんて世の中がどうなっているかまったく想像がつかない。ニコニコ動画でいったいどんなジャンルが流行るのか、そもそも今の規模感を維持できるのかすらもわからない。でも、だからこそ今は陽の目の当たっていないジャンルも隆盛を誇っているジャンルも横一線になれるし、超会議の熱気を引きずったまま、第2回超会議という「外の目」を意識して振る舞うというのは結構面白いんじゃないかなと。

 例えば今回会場の物販コーナーで販売され大きな話題となったこの商品。
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ニコニコ超会議だけ! - necomimi

 これを見て「これを超会議の入場券代わりにしたら面白いんじゃね?」なんてアホなことを思ったりもしたんですが、4年くらいの期間があればそういうくだらないアイデアもまじめに検討が可能かもしれない。検討した結果「やっぱりねーよ」となるかもしれないけれども、こういうバカバカしいアイデアに何らかの実用に用いる検討をするってそれだけで面白いと思うんですよね。思いつき自体は、単純に会場を埋め尽くすnecomimiを見てみたいというだけの話ですし、超会議関係なく街でみんながnecomimi装備してくれたらもちろんそのほうがずっと楽しいな、とも思うわけですがw。

みんなバラバラでちょうどいい

 ともかく、ニコニコ超会議は、「みんながみんな違うニコニコ動画像をイメージしている」ということがハッキリと可視化されたことが一番良かったことかな、と思っています。ニコニコ動画というプラットフォームはもはや広大すぎて、その全体像を把握しきれている人はもう誰もいない。ジャンル横断的に眺めている人も、それぞれ重なる部分と重ならない部分があって、それで全体として緩やかに繋がってニコニコ動画という場、ニコ厨という「雰囲気」を作っている。それは外から見ると一見ひとかたまりのようにも見えるけど、こうして「地上に再現」してみると、実はてんでバラバラな人たちの集合だったんだということが誰の目にも明らかになる。先のインタビューでの川上会長の言葉を見ると、そういった効果を狙ったものだったのかな、と思いますし、もしそうだとしたらやはりこのイベントは大成功だったのではないかと思います。

 そしてやはり、最初に予想していた通り、このイベントは出展者の側に回ってこそ一番面白い。それはTwitter等での参加者の報告を聞いていても改めて強く思うことでした。どんな形であれコミットしていったほうが面白いというのはニコニコ動画の本質的な部分ですし、もし第2回があれば何らかの形で自分も参加してみたいものだな、そんなふうにも思います。

ソーシャルゲームのRMTは根絶できるのか

※本日昼頃上げた記事の改訂版です。昼に上げた記事は数字に重大な誤りがあったため一旦取り下げました。
 昨日あたりから、モバゲーの「アイドルマスターシンデレラガールズ」でトレード機能を制限されるユーザーが続出しているという噂を聞き、これはいよいよモバゲーが本気でRMTの対策に乗り出したのかもしれないと考え他のゲームの様子もチェックしてみたのですが、モバゲーの人気タイトル、「怪盗ロワイヤル」や「ワンピースグランドコレクション」、「ガンダムカードコレクション」「大召喚!マジゲート」などでも示し合わせたようにトレード機能の使用の変更、注意喚起等が行われており大規模な取り組みになっている模様です。

 Yahooオークションの動きをチェックしていたのですが、「モバゲー」関連の出品数は昨日から大きな動きはないものの、「GREE」での検索結果が昨晩の約30,000件から20,000件程度と急減しており、これは申し合わせた上で同時に対策に取り掛かった可能性が高いように思います。

【モバマス】大量複製アカウントがBANされるぞ!! - とりあえず速報 シンデレラガールズ(モバマス)まとめ
【モバマス】サブ垢持ちはトレード・招待の凍結をされるらしい - とりあえず速報 シンデレラガールズ(モバマス)まとめ
http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%A2%E3%83%90%E3%82%B2%E3%83%BC&auccat=&aq=-1&oq=%E3%83%A2%E3%83%90%E3%82%B2%E3%83%BC&ei=UTF-8&slider=0&tab_ex=commerce
http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?p=GREE&auccat=&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&slider=0&tab_ex=commerce

RMT対策の難しさ

 昨今大きくクローズアップされてきたRMTですが、なぜ今まで本格的に対策をして来なかったのかと疑問に思う人もいるかも知れません。その最大の理由は今実際に騒ぎになっているように、RMT業者を根絶しようと思ったら、直接RMTに関与していない一般のユーザーも巻き込まざるを得ないからなんですね。どうしてそうなるのか、まずはRMT業者の実際の手口について解説します。

 なぜRMTの取締が難しいのか。それは、RMT業者は実際に顧客と取引するためのアカウントと、商品であるゲーム内資産を保管しておくアカウントを別々に管理しているからなんですね。業者は実際の取引の際にだけ倉庫用アカウントから資産を引き出し、取引用アカウントには資産価値のあるアイテムは普段は持たせない。だからゲーム運営がRMTを行ったアカウントを特定しそのアカウントを凍結しても、業者の手元には資産は残り続け、また別のアカウントを使って取引がされるだけ、というイタチごっこが発生するんですね。もし本気で対策するならば倉庫アカウントをこそ特定し、凍結しないといけない。もちろん今までも随時調査し、特定出来た場合はアカウントの停止措置等を取ってきたとは思われますが、倉庫アカウント自体も頻繁に移動することで追跡を躱されていたわけですね。

 今回、モバゲーの「アイドルマスターシンデレラガールズ」あるいはその他のタイトルで行われている措置は、おそらくRMT取引用アカウントと1度でも接触があったアカウント全て、あるいは直接の接触がなくとも不自然なアイテムの移動の行われているアカウントのトレード機能を一時的に凍結する、というものです。トレードを停止した状態でアイテムの流れ自体は膨大なログとなって残っていますから、それを人海戦術で1つずつ追っていけば大量のアイテムを販売目的で保管しているアカウントの特定はそれほど困難ではないでしょう。そして一度アイテム資産を失ったRMT業者が再び商売を再開するためには労多くして実少なく、おそらくソーシャルゲームにおけるRMTは今後急速に衰退していくのではないかと推測します。

「世間の声」に答えた苛烈な処置

 モバゲー、あるいはGREEがここまで苛烈な処置を取ってきたのは、もちろん新聞等のメディアを中心とした「世間の声」に答えるためです。「なぜ対策しないのか」「犯罪の温床になっているのではないか」「癒着があるのではないか」といったなんの根拠のない無責任な批判がほとんどとはいえ、世間の悪印象を払拭するため、あるいは長期的な視点でのユーザーの便益を考えてこのような処置を取ったことは最大限評価されるべきでしょう。

テクノロジー : 日経電子版
http://blogos.com/article/33428/
ソーシャルゲームのRMT対策を改めて考える - 未来私考

 もちろん、今後の推移も見守る必要はありますが、モバゲーは過去にも出会い系の温床になっているという批判を受け、個人間でやり取りされるミニメールの中身まで検閲するという、ある種やりすぎなくらいの徹底的な出会い系対策を打ち出し、現在もおそらくは世界でもっとも男女間の交流に厳しいSNSとなっているという実績もあります。おそらく今回も、完全に業者が根絶されるまで徹底的に対策を撮り続けるものと思われます。

 とはいえ、ソーシャルゲームからRMTが根絶されても、PC用のMMORPGにおけるRMTは今後も残り続けていくでしょう。先述の記事にも書きましたが、この2者は発祥も対象としている顧客も全く違う存在であり、またそもそもRMTという行為そのものはなんら違法性のない、あくまでサービスの利用規約違反でしかないものですから、現在ある意味安定した関係を築いているMMORPGRMT業者をMMORPG運営が労力をかけて排除する理由はありません。先般GREEが申し入れたRMT業者に対する申し入れも、あくまでMMORPGを中心とした業者に、ソーシャルゲームのアイテム売買の自粛を呼びかけただけで、業者そのものを潰す意図はないのは、業者を名指ししなかったことでも明らかですね。当然、彼らが販売を続ければそれは個別に対応はするでしょうから、そのような旨味のない商売からは早晩手を引いてくれるものと思っています。そもそも、現時点でもサイトを構えているRMT業者のソーシャルゲーム関連の取引量はごく微小だったりしますしね。

http://www.gree.co.jp/news/press/2012/0330_01.html

 以上はあくまで私見であることを最後に念を押した上で、RMTをめぐる今回の、そして今後の動きを理解するための参考にして頂ければ。