天気の子 変わっていく世界を受け入れるということ

新海誠の最新作「天気の子」が公開されて早1ヶ月が過ぎた。気が付けば繰り返し映画館へと通いつめ、すっかりこの物語に魅了されてしまっている。いったいなぜこれほど心を奪われてしまったのか。以下、今思っていることを物語の核心に触れる部分も含めて一切遠慮なく書き綴るので未見の方はご了承いただきたい。 

 

水に沈む東京の美しさ 

まず何と言ってもエピローグが素晴らしい。降り続く雨によって東京の東半分が水没してしまった俯瞰ショットからの3年後。状況に戸惑う主人公・帆高と対照的に、変化に順応し日常を謳歌する人々が軽やかなテンポで描かれる。「元に戻っただけ」「最初から世界は狂っていた」そう言って慰める大人たちの言葉を受けてもなお思い悩む帆高は、美しく輝く世界に向かって祈る陽菜を目の当たりにし、この世界でまっすぐに生きていく決意と確信を得る。 

この一連のシーンが本当に素晴らしく胸を打つ。特にラストシーンの美しさは、映画史に残る名シーンと言っても過言ではないだろう。 

 

賛否両論の本当の意味 

新海誠は、映画公開前からしきりに「賛否両論になるものを作った」と宣言している。これを「世界を取るか、彼女を取るか」という二者択一と受け取るのは、私は間違っていると思っている。おそらく本来想定された設問は「世界を変えずに彼女を救うか、世界を変えて彼女を救うか」なのではないか。 

天気の子という物語はあらかじめ、世界が変わる、変わってしまうということを前提に組まれた物語なのではないか。陽菜や帆高が行動しなくてもいずれ世界は変わってしまうし、仮に陽菜が犠牲になったとしてもそれは一時の延命でしかない。望む、望まないに関わらず世界は変わってしまうんだということを観客に突きつけることこそが、新海誠が真にこの映画でやり遂げたことなのだろう。 

我々の住むこの世界は、ある日突然一変してしまう可能性を常に秘めている。大地震や火山の噴火はいつか来る巨大災害として元々認識されているし、気候変動や環境破壊に伴う地盤沈下や海面の上昇も現実の問題として危惧されている。天気の子のラストは、明日も今日と同じ日が続く保証がないという事実を否応にも突きつけてくる。 

 

シン・ゴジラ」と「君の名は。」と  

娯楽映画でそんな問題提起は見たくないよ、全部元通りハッピーエンドでいいじゃないか、という声ももちろん理解できる。新海誠の前作「君の名は。」は実際そういう映画として世間に受け止められて、あるいはその読み筋に基づいて批判されたりもしていた。 

 しかし、改めてよく思い返してほしい。「君の名は。」は何もかもが元通りになる話ではない。飛騨の山奥のある集落が跡形もなく消滅してしまうという、大きな爪痕を残しているということを。 

 

消えた村―糸守町―は架空の集落ではあるし、あれだけの災害で死者が一人もいないのはご都合主義すぎる、そもそも山奥の寒村が消えても我々の生活には特に影響はない…様々な理由で、一つの集落が消滅したという出来事は観客に重さを持って受け止められなかったというのは事実だろう。ところで「君の名は。」が公開された同じ夏に、もう一本の大ヒット映画が公開されたことを覚えている人も多いのではないか。庵野秀明の「シン・ゴジラ」だ。 

シン・ゴジラ」はまさに東京を舞台にし、東京の西半分を破壊し尽くし、原状回復不能な状態でゴジラと人類が共存する世界を我々に突きつける映画だった。新海誠が天気の子の脚本を書きあげるにあたって、この映画の存在は少なからず念頭にあったのではないか。観客を当事者にするには、東京を変えるしかないんだ、と。 

 

変わりゆく世界を記憶に留める 

新海誠は、もともと変わっていく世界を美しく描く作家だった。過ぎ去っていく景色は二度と元に戻ることなく、ただただ美しく記憶に留められる。「君の名は。」以前の新海誠はそれを男女の出会いと別れという形で物語に落とし込んでいた。「君の名は。」における糸守町の消滅は、そういう二度と戻らぬ思い出の景色を描きたいという新海誠の思いが溢れた結果なのではないかと今では思う。そしてその情熱は「天気の子」では東京の水没という、より強烈な形で我々の前に突きつけられることになる。 

 そう思って改めて「天気の子」を見ると、そこに描かれる東京の多くは、2019年の今でしか見ることが出来ない、失われていく景色が描かれていることが良く見えてくる。物語において重要な役割を果たす廃ビル・代々木会館は、既に解体工事が始まっており、今年の内には姿を消してしまう。印象的に登場するバニラの求人トラックや漫画喫茶、歌舞伎町の薄汚れた裏路地も、やがて姿を消すだろう。 

 天気の子は東京の猥雑な部分を描いていることでも耳目を集めているが、現在の東京の中で消えゆく景色を追った結果が、そういった猥雑な風景になったのではないか。そして実際にそれらの景色は美しい哀愁とともに永遠にスクリーンに焼き付けられる。 

 

感情移入できない主人公  

天気の子の主人公である帆高は、感情移入がしづらいという批判もまたよく耳にする。実際それはその通りで、帆高をこういったキャラクターに造形したことは「天気の子」という作品において、もっとも大きな挑戦だったのではないかと思っている。 

東京を海に沈める。それもただ沈めるのではなく、その世界で人々の生活が続いていき、主人公もまたその世界に生きることを決意することに説得力を持たせるためには、今あるこの世界に違和感・疎外感を持っているキャラクターである必要があるという逆算があったのではないかとも思う。ともかく、帆高という少年は常識ならこうだろうという予想にことごとく抗い逆行する人物として描かれている。 

その姿はとても危うく、一歩間違えば社会の闇へと転落するのではないかというスリルがある。この、徹底的に間違える様子が、別の選択もあったのではないかという想像を喚起し、ある種の人たちにまるでゲームをプレイしているかのような幻想を抱かせたのは、狙ってのことではなく偶然の産物なのだろうとは思う。 

帆高は本当に面白いキャラクターで、一般常識は大きく欠けているが反抗的というわけではなく、好奇心とその場の感情に衝き動かされる様は16歳の少年としては明らかに精神年齢が幼く見える。そのイノセントさは愛嬌にも繋がっており、彼に手を差し伸べる人たちが現れることにも不思議な納得感がある。その帆高に手を差し伸べる人たちもまた、社会の辺縁で踏みとどまっているというのも、面白い。 

 

社会の辺縁に踏みとどまる人々 

帆高に文字通り手を差し伸べて救い上げた須賀も、帆高に手を引かれて救われた陽菜も、社会の辺縁に生きている。それは例えば是枝裕和「誰も知らない」入江悠の「ギャングース」といった完全なアウトサイダーの世界ではないのだけど、明らかにそちら側の世界が垣間見えるギリギリの淵に踏みとどまっている人々として描かれている。都市の秩序の中で生きる大多数の人々が帆高の存在を無視し、あるいは厄介者として排除しようとする中で、彼らだけが帆高を見つけ、手を差し伸べることが出来たのは、やはり意味のあることなのだろうと思う。  

その点において、劇中では帆高たちと対立することになる警察組織や児童相談所といった存在も本来的には敵ではなく彼らを見つけ社会の内側に留めようとする善なる存在として最終的に和解に至っているのも、この映画をとても心地よく感じる要素の一つだったりもする。 

まっすぐに生きていれば零れ落ちそうになっても手を差し伸べてくれる人たちはいる。それは理想論ではあるけれども、それくらいは信頼できる社会であってほしいという願いでもある。 

 

変わっていく世界を受け入れるということ  

「天気の子」で最終的に描かれる世界の変化は、当然にそこに住む一人一人に多大な負担と、取り返しのつかない喪失を与えるものなのは間違いない。その変化はしかし、望もうと望むまいといつの日か突然やってくる不可避なものでもある。 

一方で、変わってしまった世界に生まれ落ちた子供たちにとっては、それは生まれた時からある当たり前の景色で、自分たちの意思で良くも悪くも変えていけるものなんだと見ることも出来る。 

今を生きる大人たちには、失われていく美しい景色を記憶に留め、かつ新しい世界を切り開いていく子供たちの未来を祝福していくという課題が課せられているのだろう。決して簡単なことではない。現実は物語よりもずっと複雑で、油断をすると生きづらさで窒息しそうにもなる。人の心は多種多様で孤独感に苛まれる日もある。 

それでも、映画館を出て空を見上げ、自分の心が世界に繋がっているかもしれないと思えたのなら…。まだ語るべきことはたくさんあるが、いったんこの言葉で締めくくりたい。 

 

僕たちは、きっと大丈夫だ。