映画たり得なかった「東のエデン劇場版I」

 実は初日に見に行きました。テレビシリーズを楽しんだものとしてはそこそこ面白がる事も出来たし、それでお茶を濁そうかとも思ったのですが、やはりどう考えても不十分な出来であったことは疑いようがなく、それについて触れないのも不誠実に思って書いています。

 いったい何が足りなかったのか、ということについては観た人それぞれで観点も違うでしょうし、言い切るのも難しいところもありつつも、この東のエデンの場合、神山監督がこの作品の直前に書いた映画論のテキストがあるので、それを下敷きにして少しこの映画の不十分さについて解析してみようと思います。

そこに構造はあったか

 僕は、この「過去」の存在こそが「構造」を構築する上でのもっともシンプルな手法だと考えている。クラリスに昔命を救われたというエピソード自体は、やはりただの「設定」である。だが、このエピソードを、「劇中の特定の人物と観客しか知り得ない秘密」とした場合にのみ、ただの「設定」が「構造」になるのである。
16P -「構造」を獲得する-より

 神山は自著の中で、映画の構造とは「観客と劇中の特定の人物だけが共有した特定の秘密」を作る事によって獲得出来ると断じている。これは非常にシンプルで、かつ説得性がある。では果たして東のエデン劇場版にはどのような「特定の秘密」があったのか。その前にテレビシリーズを振り返って見たい。テレビシリーズの東のエデンは滝沢が「100億円の携帯を持っていること」「過去を失っていること」という大きな二つの秘密が用意されていて、これは主人公滝沢朗とヒロイン森美咲の2人しか知らない。それが神山がこの東のエデンの脚本を書くに当たって用意した「構造」の一つであることは間違いない。

 しかしこの2つの設定は劇場版においてはもはや構造を構築する力を失っている。主要な登場人物は全てこの秘密を知っており、それを前提として物語が進行していく。であるならば、劇場版を作るに当たって新たな「構造」を用意する必要があった。それは、例えば「Juizの正体」であったり「Mr.outsideの真の目的」などであるべきだったのだと思うが、残念ながらそれは観客と十分な共有が出来ていたと言い難い。

 とても象徴的なのが、映画のクライマックスに当たる部分、滝沢の Juizがロストする危機に見舞われる場面である。あえてぼやかして書いたが、劇場で本作を見た人でも、いったいどの場面の事を言っているのか分からない人もいるかもしれない。何故なら、この場面はJuizの正体について正確な理解が出来ていないと何が起きているか把握出来ない構造になっているから。

 理解出来た人から見れば、あれだけ描写があれば十分、という意見もあるかもしれない。しかしこれは文芸作品ではなく純然たるエンターテイメント作品なのだ。クライマックスが分かる人だけ分かればいいでは通用しない。仕上げの段階で明らかに足りてないのであれば、絵と音楽で無理矢理感情を揺さぶるくらいの力業をしたってよかった。それこそ神山が自著で書いているように、だ。

 映画における音楽、それはひとえにエモーションをコントロールするための装置と僕は考える。監督の立場から言えば、カットごとの画作りに細心の注意を配り作品を演出しているわけだから、本来は音(音楽)などなくてもこちらの演出意図は観客に伝わるはずである。それはその通りなのだ。だが、イメージとはそもそも説明なしに共有できるものではないのである。男と女が、ただ立って話しているシーンがセリフもなく映し出されているとしよう。これを見たとき、観客によっては愛の告白と取るかもしれないし、口げんかをしていると思うかもしれない。そういった抽象的な場面が、音楽によってその意味を決定付けられることは多々あるのだ。
50P -音楽に救われろ-より

ストーリーの外部を描くということ

 構造と並んで神山が映画に不可欠なものと考えているのが「ストーリーの外部」があるかどうか、ということだ。

 映画が始まり、やがて物語が終焉を迎えたとき、登場人物と観客双方の心理には、ストーリーそのものとはいささか異なった時間が流れるべきなのである。多くの名作は、往々にしてストーリー以外の外部(時間の流れ)を何らかの方法で獲得している。それはどういうことかというと、例えばこうだ。「主人公が冒険のはてに宝物を手にする」というストーリーがあったとする。それに対し「主人公が冒険の果てに宝物を手にするが、心は晴れなかった」という心理が主人公に芽生えたとする。この心理変化はストーリーではなく、ストーリーの外部を流れた時間なのである。観客はそれを受け、冒険のカタルシス以外に主人公の心理を感じとり、やはりストーリー以外の外部(主人公がすごしてきた、あるいはこれから過ごすであろう時間)を想像し、泣いたり笑ったりするのである。
P85 -ストーリーを超えろ!-より

 今作の場合は、滝沢の劇中での最後の選択がこれに当たるはずだろう。しかし、その最後の選択に対して共感を覚えた観客は果たしてどれくらいいただろうか。少なくとも私はまったく共感を覚えることが出来なかった。テレビシリーズにおける滝沢の最後の選択には強い共感を覚えたにも関わらず、である。

 俯瞰してみれば、再び記憶を失った滝沢が再び(あるいは三度)同じ選択をした、というシチュエーションなのだが、少なくとも劇場版において提示された情報のみを持って滝沢が同じ結論に達するという説得力を持たすことが出来なかった。既にテレビ版で同じ選択をしているのだからそれで十分だろうという考えもあるかもしれない。しかし、もしそうであればそれは最終局面にもって来るべきではない。前提として処理してしまい、別の、何らかのエモーションを揺さぶる仕掛けを用意すべきだった。

 この点で非常にもったいないと思ったのが、劇場版での新キャラクターであるNo.6直元大志の存在だ。「もし100億円があったら」という問われて「映画を撮る」という回答を思い描いた人は多いのではないかと思う。このNo6はまさにそれを選択し、なおかつまったくその為の能力が足りていないボンクラとして描かれている。

 このキャラクターはとてもユニークで興味深く、彼を主人公にしてスピンナウト作品を作ってくれてもいいくらいに思ったのだが、劇中で彼に与えられた役割というのは極めて限定的だ。大雑把に言ってしまえば滝沢と森美の行動を制限し、誘導するという役割に終始して終わってしまっている。

 もう一人、劇場版でとてもよい役回りを貰っているのがセレソンNo11白鳥・D・黒羽。彼女に感情移入できた人はおそらくはこの映画にそれなりの満足を感じることが出来たのではないかと思う。それは何故かといえば、彼女の行動がテレビシリーズの滝沢との出会いによって成されたものだから。過去のトラウマから殺人を繰り返していた彼女が滝沢との出会いによって変化し、あのような行動を取るというのはとても魅力的だ。

 しかし彼女の変化はあくまでテレビシリーズのものであり、劇場版は劇場版でやはり何らかの形で滝沢の力を見せるべきだったように思う。それが出来たのは、やはりNo6だと思うんですね。No6が滝沢を観察し、あるいは直接対峙し、それによってその心境に何らかの変化を来したとしたら、基本的なストーリーラインが一緒でも、おそらくはこの映画の印象は全く違ったものになっていたように思う。それは、考えるに決して不可能でも難しい事でもないだけに、とても残念だった。

東のエデンが目指していたもの

 基本的な作劇のレベルで、残念ながら東のエデン劇場版Iは映画のレベルに達していなかった。それ自体もとても残念な事で、公開直前になっての尺の変更などというドタバタを見てもおそらくは制作状況になんらかのトラブルを抱えていたことは想像に難くない。これも神山が自著に書いている通り、制作状況に勝利出来なかった映画は、その本来の力を発揮することなく凡作駄作へと転落してしまう。

 制作のインフラがどれだけ整っていても「制作状況」という”不可視なるモノ”の前では、演出プランなどまるで予定通りに走行することのない暴走機関車に簡単に変貌してしまう可能性がある。したがって「制作状況」の存在を可視化できなかったとき、大作映画はアラン・スミシー名義となったり、読めた時には超 B級用企画、が不朽の名作になる可能性が手に入るのである。
P24-演出の方向性は制作状況によって決められる!-より

 ではそれを差し引いて、もしここに理想の東のエデン劇場版があったら、と仮定して(主にその脚本から)それを俯瞰して見た時、満足の行くものたり得たか、というと、実のところその段においても十分な満足を得ることは出来なかっただろうと思っています。東のエデンについては過去何度も記事を書いてきましたが、この作品が本来持っているポテンシャルは、滝沢朗が王様になった/ならなかったメデタシメデタシで終わるものではなく、その先を描ける可能性を見せたことにあると思っています。

[東のエデン]記事一覧 - 未来私考

 テレビシリーズにおいて滝沢が王様になるという決意をした時の台詞「この国には頭のいい連中がいっぱいいんのに損な役回りやる奴がいないんだ。出来れば俺だってやりたくないけどさ」。王様になるということは損な役回りであるという認識。それを誰かが引き受けなければならないという現状を乗り越えて、あるいはそれを必要としない世界の在り方の呈示こそが東のエデンが指し示すべきものだったはずだ。であるならば王様としての滝沢の役割はこの劇場版前編で明らかにされるべきだったように思う。

 映画の始まりで、ビルの上の看板に滝沢のシルエットが映し出された瞬間、既にこの世界の英雄となった滝沢を想起してワクワクしただけに、テレビシリーズの反復で終わってしまい回答を先送りしたことにはとても落胆してしまった。もちろん、与えられた残りの90分でそこまで描ききる可能性はある。が、そうであったとしても前後編とした事の意味はやはり薄れてしまったなと思います。劇場版後編までの間、王様になった滝沢がどのようにこの国を救うのか、あるいは救うことを放棄するのかについてワクワクしながら考えるという時間を与えられることが出来なくなってしまったわけですから。