東のエデン劇場版IIは映画足り得たのか

 3月13日から公開された「東のエデン劇場版II paradise lost」を公開初日に見に行ってきました。スケジュールきつきつでしたが、前回を厳しく評価したこともあって、早々に落とし前をつけたほうがよいかなと思い。結論から言うと、良かったです。手放しで絶賛できる出来かと問われれば、アラは多々あり、人によっては残念に思う向きもあるでしょうが、神山健治の映画哲学がしっかりと反映された紛う事なき「映画」であったと言ってよいと思います。

滝沢朗とは何物なのか

 劇場版IIのキャッチコピーである「滝沢朗とは何者なのか?」。映画を見て結局何物だったんだよ!?という疑問を持つ人も多いかも知れません。これに対して答えるとしたら、滝沢朗とは「何者でもなかった」というのが正解なんだろうと思っています。もちろん滝沢朗は、何事かを為すことができる大した男だったわけですが、それは滝沢が何者かの特別な存在、特別な出自を持っていたからではなく、手にした偶然に、目の前の出来事に正面から向かっていったからなんですよね。クライマックスで血筋の話を軽く翻したのはおそらくそういった意図なのでしょう。

 それは他のキャラクターにしても同様で、劇場版Iが滝沢朗と森美咲の2人の物語に収斂して他のキャラクターが背景化してしまっていたのとは対照的に、今回の物語ではそれぞれのキャラクターが、それぞれの目の前の状況に対して出来ることを自分たちの物語として受け止めていったのが印象的でしたね。特にエデンメンバーたち、咲に片思いしていた大杉くんの空回りや、受け身に回りがちだった春日や平澤が主体的に動き出していたのが特に印象的でしたね。それぞれのキャラクターの動きが短い尺の中で語りすぎずに語られる事で、それぞれが持っている情報がモザイクになって、世界全体に奥行きが出てくる。これが劇場版Iにはなく、劇場版IIで獲得出来ていた「映画らしさ」のひとつでしょう。

そこに確かに存在するということ

 映画全編の中でもっとも印象に残っているシーンは、ウミホタルでの滝沢とJUIZの邂逅シーンですね。JUIZにそっと手を当てながら語りかける滝沢がその時何を思ったのかははっきりとは描写されません。それをあえて想像するならば「JUIZそこに確かに存在している」という感慨だったんじゃないかな、なんて思います。携帯電話を通じて何でも夢を実現してしまう魔法のような存在だったJUIZも、ちゃんと実体があって触れられる存在なんだという示唆はとても重要なことなんじゃないかな、と。

 クライマックスでのAirShip*1を使った仕掛けも、ただ自分のメッセージをマスに伝えたいのであれば公共の電波を使えばいい。それを携帯電話というデバイスを介することで、メッセージを受け取った側は擬似的に滝沢と1対1の関係性を感じることが出来るというのが趣旨なんですよね。滝沢の側も、プレゼントによって減った額面の数だけ向こう側に受け取った人がいることを想像出来る。目の前の人がそれを受け取ったことを確認することで、同じように受け取った人が向こう側にいる事を感じることが出来る。それこそが東のエデンという作品が目指した地点だったんでしょうね。

制作状況との戦い

 と持ち上げたところで、少しだけアラについても書いておく。まずパッと気になるところは、構成の良さに比べて、脚本…というよりも個々の台詞回しですね、練り込みが甘くて野暮ったい箇所が散見されます。脚本で作品を見る人はこれで興ざめしてしまう向きはあるかとは思います。もう一つはやはりカタルシスの不在ですね。個々のキャラクターに厚みはあるものの、後半に向けて一点に収束していくダイナミズムに欠ける。映像的な刺激を求めていた向きにもやはり物足りなく感じるところはあるでしょう。セレソンNo1とNo11の顛末も、象徴的ではあるものの、やはり少々乱暴に過ぎるところがあって、もう少しスマートな解法はなかったのかと考えてしまいますね。

 とはいえ、これらは出来不出来のフレームの話で、この作品が映画として本来備えている構造的な強さは損なわれていないと言うことは付け加えておきたい。テレビ版終了から劇場版までの短い準備期間の間に実際に何があったのかは知るよしもないものの、断片的に伝わってくる情報からも大規模なプロットの再構築があったことは間違いなく、脚本執筆スケジュールがかなり逼迫していたことは想像に難くない。その中で何を優先すべきかという取捨選択判断の中で最善を尽くしたとは言っても良いのではないかな、と思います。ちょっと上から目線ですかね。あと1ヶ月あればもっとブラッシュアップ出来たかも…と思わなくもないですが…そのあたりは出版予定の小説版、あるいはDVD化の際の追補があればより嬉しいですね。

12日目は存在するのか

 ところで、劇場版の〆の台詞ともなったキャッチコピー「たった11日間の物語」。これってわかりにくいんですけど、テレビ版の8日間+劇場版の3日間ってことなんですよね。滝沢と咲が過ごした11日間。その回想という形で始まったこの物語ですが、果たして12日目…つまり滝沢と咲が再会する未来というのはあり得るのだろうかってことをちょっと考えてまとめとしたい。と言っても、映画を見たほとんどの人は、12日目はあるという漠然とした印象を抱いたとは思う。それは続編があるとかそういう話ともちょっと違って、この世界はこの先もずっと続いていくという心地良い余韻があるんですよね。

 ここからはちょっとしたアナロジーの話。そもそもこの11日間という設定は、テレビ版の全11話という構成、及び作中で登場する11人のセレソンとの対比として用いられてると思うんですよね。でもちょっと待ってくれ、テレビ版の11話のあとに劇場版の2話があるぞ。セレソンも11人じゃなくて12人じゃないか、という声が聞こえてきそうですが、まさにそれ自体が、この問いに対する答え何じゃないかと思っています。存在が不確定だった12番目のセレソン、彼もまたEXTRAではなく、確かにちゃんと存在した。それを見つけることが物語の終着点だったとしたら、滝沢と咲の12日目も当然存在する。そう考えるのが妥当でしょう。ちょっとした言葉遊びではありますが、そんな印象を抱かせるための仕掛けの一つ何じゃないかななんて考えたりしましたね。

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