漫符によって伝わる言葉にならない感情

「東のエデン」に感じる違和感 - アニメ、漫画作品と映画作品の差異 - ご機嫌よう。さようなら。

 東のエデンのような写実的な作り込みの作品で積極的に漫符(感情を表現する漫画的記号表現)を積極的に多用するというのは珍しいですよね。シリアスな展開の続く9話*1、10話*2にも使われているあたり、演出家の手癖等ではなく、かなり意図的に用いられているのがわかりますね。

伝わる感情と伝わらない感情

 第5話視聴時にも少し書いたのですが、この作品は人と人の伝わらない気持ち、ディスコミュニケーションの有り様を明確な意図を持って描いているんですよね。言葉が、それを発した人の思い通りに伝わらない、お互いがお互いを想う気持ちが噛み合わない。9話の、大杉からのメールを内容も見ずに題名だけ見て携帯を閉じてしまう咲の態度なんかも象徴的なんですが、大杉は純粋に咲たちを心配してメールしたのに、咲には「いつもの」ウザメールとして片付けられてしまう。そう処理されていることにすら気付けない。それが、普段私たちが行っている「コミュニケーション」の実際なんですよね。

一方通行の言葉たち 東のエデン第5話 - 未来私考

 はっきり言って、この世界認識は、かなりしんどい。そして現実の「コミュニケーション」のすべて、でもないんですよね。実際には、言葉によらないその場にいる人たちだけに伝わる感情の伝達、いわゆるノンバーバルなコミュニケーションというものがあって、それこそが人と人のつながりを円滑にするんですよね。それをアニメーションで表現する手段はいくつかあるのですが、東のエデンはあえて一番安い手段とも言える漫符の多用という手法を用いているんですよね。ディスコミュニケーションを描くからこそ、伝わる感情は誰にも明らかに伝わっていることが分かる表現を、チープに見える危険性も認識した上で用いている。

 特に10話での物部と滝沢の会話はとてもテクニカルで。緊迫した場面で、それでも一瞬人と人として和む瞬間がある。目の前の彼を人間として認識しうることを、ぎりぎりの短い表現で伝えることに成功している。滝沢青年の持つ人間的な魅力が、相対する人間と漫符によるノンバーバルなコミュニケーションを可能にしてるんですよね。

 そこから逆算して、滝沢と対比されるキャラクターであるNo10結城が、目の前の人間を人間として認識していないこと、No1物部が、けして人間味が皆無ではないがそれを全部呑み込んで私情を捨てて行動していることも見えてくる。世界全体が冷たく固いものとして描かれているからこそ滝沢を中心に描かれる柔らかい空気感が異化効果を生んでいるように思いますね。

観客の心を一つにする

 それにしても板津豊のその熱い生き様は素晴らしかったですね。神山健治監督が著書「映画は撮ったことがない」の中で脚本に必要なのは「劇中の特定の人物と観客しか知り得ない秘密」を作ること、と述べているのですが、板津豊というキャラクターと彼が手に入れた秘密は、まさにその教則通りといった感があります。板津が知った迂闊な月曜日とニート大量失踪事件の真相、それを滝沢や他のエデンメンバーが知らないが故に広がる誤解、そして板津が残したものが事態を打開する鍵になるかも知れない可能性。そういった情報が丁寧に呈示されていることで、見てくれは決して良いとは言えない、好漢・板津への強い感情移入を誘っている。監督自身もかなりこの回はお気に入りのようですが、9話は全話通してみてもかなり強い1回でしょうね。

 関東では既に最終回が放映されいろいろと評判も漏れ伝わってきますが、後日の映画2編も含めてどのような世界を見せてくれるのか、とても楽しみにしています。

*1:咲とみっちょんが2年ぶりに板津を見て驚くシーン

*2:ヘリコプター内での物部のやりとりでMr.Outsideのネーミングはダジャレだったことに思い至ったシーン