コンテンツがフリーになりたがる、ということ

http://diamond.jp/series/kishi/10081/

   ”content wants to be free

 岸博幸さんがいつもの調子で“Free”に対して意見を表明していますが、この原文を“コンテンツは無料になる”と解釈してしまうとまったく意味が通らなくなってしまいますね。ここは正確には“コンテンツはフリーになりたがる”と訳すべきで、日本語版でもそうなっていたはずなのですが、岸さんは原書で読んだんでしょうかね。そもそも制作物が無料で出来上がるなんてことは誰も主張していない。どれほどの費用をかけて制作したものであっても、何もしなければコンテンツは無料へと近づいていく、ということが言われているんです。そして当たり前ですがこの認識はきわめて真っ当です。もし何もしなくてもコンテンツの価格が下がらないのであれば、そもそも様々な著作権保護団体は存在する必要がないわけですから。放っておけば無料化へ向かうコンテンツ群の財産的価値を守るために岸さんたちは活動しているわけですよね。

アニメビジネスに見るフリー現象

 「コンテンツがフリーになりたがる」ということをもう少し具体的に考えて見ましょう。例えば1話30分の平均的なテレビアニメを作るにはおおよそ1000万円の費用がかかります。このアニメが制作されてから世に出るまでの間、このコンテンツには1000万円の価格が付けられていると言うことが出来ます。仮にテレビに流さずとも誰かがポンと1000万円を支払ってしまえるなら、産業としてはそれで成り立ちます。とはいえそんな気前のいいお金持ちは実際には存在しないので、プロデューサーはビジネスモデルを模索し、スポンサーを説き伏せ、あるいは制作会社が持ち出しで出資することで、世に出されるわけです。この、世に出された瞬間からコンテンツがフリーになりたがる力が働きます。

 まずスポンサーへと呈示された段階。 1人のスポンサーがまるごと買い受けてくれれば、そのコンテンツの価値は1000万円のまま維持されます。しかし実際にはほとんどのケースで複数のスポンサーが乗り入れたり、制作会社と折半する形で価格は下がっていきますね。例えばそのコンテンツに100万円出資したスポンサーにとっては、そのコンテンツの価値は100万円なんです。制作費に1000万円かかったにも関わらず、この段階でもう数分の1に価値が目減りしている。

 さて、スポンサーはこのコンテンツを買うことで、それが買った時以上の富を生み出してくれることを期待しているわけです。それは例えばコンテンツと抱き合わせて自社製品の広告を広めることであったり、あるいはコンテンツそのものを更に安い価格で流通させることで資金を回収することだったりするわけですね。広告を広めることが目的の場合、それがちゃんと抱き合わされる限りは可能な限りコンテンツも広まってもらった方が良い。ここでもコンテンツをフリーにする力学が働きます。自由に、安価にコンテンツが広まれば広まるほど、広告も一緒に広がるわけですから。かくしてテレビという公共の媒体に乗せてかつて1000万円の価値のあったコンテンツは“無料”で配られることになります。重要なのは、好むと好まざるとに関わらず、この時点で既にいったん無料になってしまっている、ということです。

無料化するコンテンツで商売するには

 では、コンテンツそのものを更に安価で販売して資金を回収しようとする人たちはいったいどうしたらよいのか。考え方は2つあります。一つは、テレビに乗った時点で無料になってしまうのならば、テレビに乗る前にそれを求める人に売ってしまおう、という考え方です。かつて OVAという形態が発明されたのはまさにこういった考え方に基づいています。最近では劇場や有料放送での先行上映や、あるいは漫画単行本と抱き合わせで販売するOADといった形態がこれに当たりますね。問題は、こういった販売形式を取るためには作られるコンテンツが既に何らかの形でブランド化している必要がある、ということです。かつてのOVAは制作スタッフ名が最大のブランドの役割を果たしていました。空前のアニメブームの中で熱心なファンはそのスタッフワークに注目し、彼らの名前で新作を指名買いしていたんですね。しかし矛盾というか皮肉というか、多くのアニメ制作者が名を売る舞台は、既に無料化しているテレビアニメ作品だったんですね。一方で無料で提供されるアニメがあるからこそ、OVAもまた存在することが出来たわけです。その後OVAはテレビで先行して人気を得た作品の続編や人気コミックやゲームのアニメ化といったものが主流になっていきますが、これもブランディングを必要とするこの販売形態の宿命と言わざるを言えません。

 もう一つの考え方は、ともかくいったん無料になってしまったのであれば、何らかの付加価値を付けてパッケージ化することで価値を上乗せしよう、という考え方です。まずパッケージ化し化粧箱に入れるということに付加価値を感じる人がどうやら一定数いる。あるいはコンテンツの一部にテレビでは放映されていないボーナストラックを加えたり、内容の修正を行うといったことも行われていますね。あるいはもっと直接的に購入特典としてなんらかの限定グッズを付属させる、という方法もあります。この場合でも注意しなければならないのは、既にコンテンツ自体は(テレビ放映によって)無料になってしまっている、ということなんです。付加価値が多ければ多いほど値頃感は出るものの、今度はその制作費が上乗せされてしまう。結果、どうしても割高感を感じてしまうわけですね。今、BDソフトが比較的好調な販売を見せているのも、BDの高画質がテレビ放送に対して付加価値として機能している部分も大きい。これから地デジが普及してハイビジョンでの放送が可能になるのは、コンテンツビジネスを考えた時にはむしろマイナス要因として働く可能性のほうが高い。テレビ局が地デジを推進するというのは、高額な設備投資をしてコンテンツ販売のインセンティブを削いでいるようなものと言えるかもしれません。

 概ね今のテレビアニメの商品というのはこういった方法でその原資を回収しているわけですね。ネットでのコンテンツ販売がなかなか進まないのも、この付加価値を付けるのが難しいという点が大きいようにも思います。もう一度改めて整理しましょう。コンテンツが無料へと向かう力学のある世界で、コンテンツで商売するには概ね2つしか方法がない。

・無料化する前に売り抜く
・無料化されてしまった後に付加価値を付けて売る

 これを踏まえて商売しましょう。という話ですね。うん、当たり前の結論だ(笑)。コンテンツは無限に富を生み出すわけではない。それを分かっていない人は意外に多い。だからかつて富を生み出していたものが富を生み出さなくなったのは環境のせいだ、フリーライダーのせいだなどといった論理のすり替えをしてしまうんでしょうね。

デジタルコンテンツ販売の可能性

 さて、ここまで書いたところで、じゃあネットでの直接的なコンテンツ販売に未来はないのか?と思った人もいるかもしれません。が、私はそうも考えないんですね。ただ現状のネットでのコンテンツ販売は上記の原則を無視してただファンの善意に寄りかかっているようなところが大きい。これでは先はないと思われても仕方のないところはあります。いくつか、具体的な可能性を示唆しておきましょう。

 まず第一に「無料化する前に売り抜く」という方法論です。これはとてもシンプルですね。スタッフなり作品なりが既にブランディングされているものであれば、ネット上での販売も、有料放送や劇場公開と同じようにお金を取ることが出来る。先日プレイステーションストアで販売された「ガンダムUC」などはその方法論の先鞭とも言えますね。ただしこの販売方法にはいまだに残念ながら一つの足枷がついている。それがネット上でのコンテンツ販売の広がりを大きく阻害していると考えています。それについては後述します。

http://www.jp.playstation.com/psn/store/video/uc/index.html

 ではもう一つの「付加価値を付ける」という方法論はどうか。これについては具体的な取り組みというものは残念ながら聞いたことがなかったりします。それどころか、ネット上でのコンテンツ販売の多くは、付加価値どころか元のコンテンツよりもマイナスの価値しかないものも多い、というのが実情です。これで売れないと嘆かれても正直困ってしまいますよね。それでも一定の需要を確保できているのは(PCでも携帯でも)ネットでの視聴は、見たいと思った時に、僅かな手間でいつでも見ることが出来る、という優位性があるからなんですね。これが現在ネット販売に与えられている唯一の付加価値と言っても良いでしょう。ここを足がかりに、デジタルデータならではの付加価値を考えていくことこそが、コンテンツ販売の今後を考える上で最重要課題でしょう。

 その一つがポータビリティ。実はコンテンツ販売においては、PC上のそれよりも、携帯での販売のほうがはるかに大きなシェアを持っているのは周知の通りですが、これはオンデマンドの最大の価値である「何時でも」に加えて「どこでも」も同時に実現されているからなんですよね。現在のコンテンツ販売の多くはコピー防止の観点から機器に対する縛りが非常に厳しく設けてある。このおかげでデジタルデータの最大の長所であるポータビリティが殺されてしまっているというのは本当に勿体ない話で。本来であればパッケージメディアよりもはるかに自由なはずの機器間の移動がほとんどままならないというのはオンデマンド販売の大きな阻害要因でしょう。先述したガンダムUCも、PSPPS3、あるいはPCでの視聴というポータビリティをある程度確保している点は評価できますが、やはりレンタルという縛りから抜け出ることが出来ていません。これは本当に残念としか言いようがない。

 そう。そもそもフリーは「無料」だけでなく「自由」のダブルミーニングでもある。コンテンツは自由になりたがる。だから各種制約のあるオンラインコンテンツは本来のポテンシャルよりもずっとその価値を落としてしまっているんです。その最たるものはネット上での「レンタル」という考え方ですね。一度購入したデータが1週間なり1ヶ月なりで見れなくなってしまう。こんな不自由なメディアを選択する人はごく少数でしょう。音楽コンテンツはこのような時限的な制約は一切ないにもかかわらず順調にその販売を伸ばしている。映像コンテンツがコピーの流通を恐れてレンタルに拘泥しているのは単に思い込みでしかない。この悪習が撤廃されない限り映像コンテンツのネット販売がこれ以上伸びることはないと言ってもいいかもしれません。

 自由になりたがるデジタルコンテンツの特性を正しく理解すれば、そこにはまだ大きなビジネスチャンスが眠っているんです。比較する相手、競争する相手を間違えた議論をしていても得るものは何もない。

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コンテンツ制作は無料化しない

 最後にもうひとつ当たり前の話を。それは岸さんも言っていますが「コンテンツはフリーになっても、コンテンツ制作は無料にはならない」ということです。この意味するところをもう一度深く考え直していく必要がある。上記の話は、フリーの議論における、内部相互補助の側面を捉えたに過ぎない。これ自体は特段新しいことは何もなく、単にデジタルメディアの特性を正しく捉えられるかどうかという話でしかない。フリーの議論のもうひとつの側面として、制作物ではなく、制作者自身に直接の報酬が支払われる方法の模索があるということも忘れてはならない。これは寄付ベースの無料コンテンツが何故成立し得るのかという議論にも繋がる話です。

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 ここで述べられていることもまさにそういった内容ですね。このあたりについてはまた機会があれば掘り下げてみたいですね。

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