もういっそCMだけでいいんじゃないか

思い切って放送行政のちゃぶ台をひっくり返してみよう (1/3) - ITmedia NEWS

 メディア評論家の小寺信良氏がついにぶち切れた。誰も幸せにしない地上波デジタルなんてやめちまえ!と。高画質にする事で利便性が下がるくらいなら高画質化なんてしなくていい。美しい映像が見たい人は自分たちでお金を払って個別に見ればいい。特に映像にこだわりのない消費者なら誰でも思う事だと思う。

なぜコピー制限が必要なのか

 そもそもなぜ放映された番組のコピーを制限する必要があるのか。CMが飛ばされるからなんてのはたちの悪い冗談、あるいは方便でしかない。CMの有無それは番組をパッケージ化するなどの二次利用を前提にしているからなんですね。本来売って儲けたいものを1回だけお試しで見せますよ。だからコピーはしないでね。というのが製作サイドの本音でしょう。それがHDの、市販のDVDよりも高画質のコンテンツなら尚更です。だけどこれがそもそもの矛盾なんですね。最初にただで配ってるものが一番品質がよい。後でお金を払って市販されるもののほうが品質が悪い可能性がある。お試し版である無料放送に、なんでそんな高画質が必要なんでしょうね???

テレビの魅力は誤配と体験の共有

 もちろんテレビの果たす役割は無料のコンテンツ配信ツールというだけではないんですけどね。例えば“誤配”と“体験の共有”といったものもあります。誤配―自分が能動的に欲した情報ではなくまったく無関係な情報がキャストされることで興味の幅が広がったり気付きを得たりすること。体験の共有―同じ時間に同じコンテンツを消費する事で他者とのコミュニケーションの糧とすること。コンテンツの配信も含めてこれらは全てネットでも賄えます。実際私はTwitterニコニコ動画というメディアでほぼ同じ機能を堪能しています。とはいえ、そうゆう機能が特別な知識もなく簡便に得られるというのはテレビのアドバンテージですね。

テレビ局のお客様は視聴者じゃなくてスポンサー

 ところで、NHKを除く民放放送局というのは視聴者からは収入を得ていない。テレビ局のお客様は広告費を払ってくれるスポンサー。だから彼らが視聴者を軽視するのはある意味当然なんですね。視聴率という指標に執着するのも、それが直接スポンサーからの収入を増やすから。昨今視聴率が実際の視聴者の動向に即してないんじゃないかという議論もありますが、テレビ局にしてみたらそれを正確に反映されても何のメリットもない。だから現状を変えず、視聴率こそが正義という態度を貫いているわけです。民放のテレビ番組というのは、すべからくCMを見てもらうために存在してるんです。

いっそCMだけを24時間流すチャンネルが欲しい

 それならばもういっそテレビは24時間CMだけを流してれば良いんじゃないかと思う。今時のCMは、視聴者に少しでも興味を持ってもらおうと創意工夫をこらしており、下手たら(しなくても)番組本編より面白いなどというのはよくある日常で。映画やドラマも本編を放映するからコピーが問題になる。予告編だけを流して続きは有料チャンネルや映画館でね、と言ってくれたほうがよっぽど健全だと思うんですが。

 それと、日常で出るテレビの話題というのも、CMの話題のほうが圧倒的に多数なんですよね。見てるか見てないか分からない番組よりも、1日中繰り返し放映されて、しかも15秒なり30秒なりで内容が掴めるキャッチ―なCMのほうが話題にしやすいですから。テレビを見ない生活をしていると、こうゆう話題のCMを見れないというのがあって、わりとそれは困っていたりするんですね。

プライドが邪魔をする?

 それは極端な話にせよ、せめてCM番組表とかは提供してくださいよ。スポットCMの1時間後までの放映予定順とかで良いから。と思うんですけど、そうゆうことをやってくれてる放送局すらないんですよね。積極的にこちらからCMが見たいと言っても、それを実現する手段がない。下らない番組とセットでないと見る事も適わない。なんというか、矛盾してますよね。テレビ屋さんはひょっとして番組が主でCMが従だと本気で思ってたりするんでしょうか?そんなくだらないプライドは捨てちゃっていいと思うんですけどね。

ウタ箱の曲名弾幕はニコニコ動画でもっとも美しいコメントの一つかもしれない

 初音ミクの消失などで知られるcosMo@暴走Pの代表曲にウタ箱というタイトルがあります。

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パッケージの中で開封される日を待ちながら、まだ見ぬ歌、まだ見ぬ物語に思いを馳せる初音ミクの心境を、力強いドラムラインに乗せて歌い上げた良曲。その1分35秒地点から始まる曲名弾幕と呼ばれるコメント群があります。
 この星に張り巡る物語 パラレルな世界 無数のボクとマスター それぞれの音(カタチ)を今 奏で始めるのは 愛すべき妄想
 始まりは、一人のコメント職人がつけたコメントアートとして。

 私の時間 みくみくにしてあげる ハジメテノオト 雲の遺跡 Lividus なぜか変換できない ストラトスフィア melody... メルト 桜のような恋でした SING&SMILE Packaged 恋スルVOC@LOID ウタ箱 この想い伝えたくて Little M ぴんぽんだっしゅ! 桜の季節 おしえて!だぁりん 涙にさよなら Celluloid 初音ミクの暴走

 歌詞と共に初音ミクのブームを彩った名曲たちの曲名が一斉に流れてくる演出。箱の中のミクのまだ見ぬ曲への妄想と、パッケージから飛び出したミクが紡いできた曲が交差する瞬間。この見事な演出に次々と曲名を追加していく人たちが現れ、現在再生されているバージョンでは100曲に迫る巨大な弾幕となっているんですね。

 この弾幕は、初音ミクのブームが続く限り完成する事がない、新たなマスターピースがあらわれるたびにアップデートされていく、そしてこの曲自体もこの弾幕によってニコニコ動画におけるマスターピースの一つになっている、そう思います。

"ラストライヴ"-"LASTLIVE"(初音ミクSS) - N.S.S.BranchOffice

 というところで紹介するのは、cosMo@暴走Pの世界を再構築したnorth2015さんの小説。cosMoファンは必読です。

死んでおるギアス

ギアスってやつは、超常の力に依るまでもなく、常に存在していて僕達を束縛している。コードギアスのリアリティ----超常の力としてのギアス/超常ではない人間模様としてのギアス - シロクマの屑籠(汎適所属)

 p_shirokumaさんのこの考察は非常に的確で、コードギアスという作品は有形無形の行動を束縛する呪いのような力が働いていて、ギアスの超常能力というのは明らかにそのカリカチュアなんですよね。

死んでおるギアス

 その中でも特に強力なのが、皇帝が幼いルルーシュに発した「死んでおる」という言葉によるギアス。皇位継承権なんて要らないと言うルルーシュに対し、力を求めないのであればそれは死んでいるのと同じだと突きつけたんですね。とルルーシュという生来心優しき少年は、CCに出会うまで、ギアスの力を得るまでは、それでもいいと思っていた。それが、第1話でのルルーシュ「あの日から俺は、ずっと嘘をついていた。生きているって嘘を」という台詞に繋がるんですね。

 ブリタニア帝国のルールを否定し、小さな幸せこそを求めているのに、力を求めた時から皇帝の敷いたルールに則って生きてしまうという矛盾。力を放棄するという選択肢は常にあるのに、それを選択できないのは、皇帝の言葉によるギアスにルルーシュが支配されているからなんですね。「また昔みたいになるくらいなら」死んだほうがマシだ(第1期7話)という、その昔こそがルルーシュの求める幸せであるのに…。

ナナリーの選択

 一方でルルーシュが力を得る事が出来ないと断じていたナナリーは、R2においてブリタニアのルールに則って力を求めてきた。R2第7話の自暴自棄のルルーシュは、この矛盾が決定的になってしまったからなんですね。第7話のルルーシュの“気付き”はこの呪縛を解き放ったかとも思ったのですが、その後の2話を見るに、まだその支配下にあるようです。

皇帝のルール

 ところで、皇帝は皇族が力を求め、そして闘争を覚悟するのであれば、それを決して咎めないんですよね。ということは、もしルルーシュが力を求め、皇位継承候補のレースに参加する意思を示したならば、ひょっとしたら皇帝はそれをあもうもなく承諾するかもしれませんね。その時こそがこの呪縛が解かれる時なのかもしれません。