ニコニコ文化とウェブ文化の違い

 酷いものを見た。悪意がコピー&ペーストされ増幅し拡散し定着する、ウェブの暴力性というものをまざまざと見せつけられた。あえて引用もトラックバックもしないので、あの話かと分かる人だけ分かってもらえればよいのですが。

 ニコニコ動画のコメントというのは、情報の揮発性がとても高い。揮発性が高いというのは書いてもすぐに忘れ去られてしまうという事。1動画上のコメントの表示件数は5分以内の動画で250件。10分超の動画でも1000件しか同時に存在できない。ニコニコ動画上で同じメッセージを発信し続けるのには膨大な労力を要する。時々もの凄い情熱で同じメッセージを繰り返す人もいるが、それを不可視化する為の労力に比べてとても割に合わないので強烈な悪意を持った人間でもよほど続かないし、そもそも強い悪意を持った人間というのは少数派だという合意形成が、概ね取られている。

例えば1ヶ月ほど前に非常に物議を醸して荒らしコメントが殺到したこの動画。

 まだ多少残滓が残ってはいるものの、当時のとても見てられないくらいのひどい罵倒は息をひそめ、ちょっと雰囲気悪いな程度の状態まで落ち着いている。もちろん、完全とは言えない。しかし悪意が増幅されたまま定着するという事は決してなく、いつか忘れ去られていく。後から来たものがその悪意に晒される事がない。それが、ニコニコ動画上でのコミュニケーションの特徴なんですね。

 ニコニコ大会議の場合は同じコメントを同時に1万人以上が共有していたと言う点で通常の動画とは少し事情が違う部分も確かにあります。しかしその場においてもやはり無邪気な悪意に対するカウンターは発生しており、イベントの進行の中で“それ”だけが特別に目立って浮いていたと言う事態は発生しておらず…あくまでその場で揮発してしまう一瞬の出来事でしかなかったんですね。

 それがウェブ上にコピペされ、一部分をクローズアップし枝葉を切り落とし分かりやすい形に整形され、まるでそれだけが本質であったかのようにずっと晒され続ける。悪意のこもったコメントが連鎖していく。別にいいんです。あの場面について個別にどのような感想を抱いても。ただ、その記事を見た人が原典に当たらずその記事に書いてある部分を切り取ったものを事実として受け取ってしまう危険性についてはもっと思慮してもよいのではないかと。

 発せられた言葉が時間と空間を越えアーカイブされ、いつでも誰でもアクセス出来るというのはウェブというメディアの特徴でありアドバンテージでもあります。しかし、だからこそそこに悪意が蓄積される可能性をもっと省みてもよいのではないのでしょうか。

 ニコニコ動画、そしてTwitterといったサービスは、その不便さ、発言の追跡性の低さゆえにコミュニケーションの際に生ずる摩擦がぎりぎりまで低減される。だからこそその場にいる人たちは何ものの目も気にせず自由闊達に振る舞ったり出来てしまう。ニコニコ文化とでもいうべきこの揮発性の高いメディアと既存のウェブ文化の間には決定的な違いがある。それを自覚せずに“同じウェブ文化”として括ってしまうときに今回のような悲喜劇が発生してしまうのかもしれない。