世界は面白さで満ちている
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081129/1227941427
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081130/1228031673
このあたりを読んで。
今、とくにこの現代の日本というのは、あまりにもたくさんの面白いもので満ちあふれていると思うんですよね。だいたいにおいて面白い事も面白くない事も含めて現代人というのは忙しすぎるので、面白いものを積極的に探しにいくよりも、目についた面白いものをその場で楽しむだけである程度満足してしまえる。だから自分の観測範囲にないものを面白がっている人を見ると「なんであんなものを面白がっているのだろう。こっちに面白いものがあるのに」なんていう勘違いを起こす人も凄く多い。だけど、そうゆう生き方ってすごくもったいないと思うんですよね。
ひとつのものにこだわるということ
面白いというのは、対象に対して自分が何か特別な印象を受けるということだ。自分が好きになったもの、面白いと思うものを、1ジャンルでも1人の作家でも、たった一つの作品でもいい。それに深く深く沈溺して偏愛していると、あるとき突然、そこに、とてつもない深遠があることに気がつく事がある。目の前がパァーっと明るくなって蒙が啓かれるというべきか、今まで自分はいったい何を見ていたんだという認識のパラダイム変換が起きる事があるんですね。自分がそれに対して分かっていたつもりになっていた全能感が粉々に砕かれる。神は細部に宿るとはこうゆうことなのか、と。
それは対象がテレビだとかアニメだとか漫画だとかニコニコ動画だとか、そうゆう事とは一切関係なくて、ただただ世界の広大さに打ちのめされるんです。「たかが漫画」「たかがゲーム」にここまでの深遠があるんだ、という。これに一度気付いてしまうと、おいそれと他の人の面白がっているものをつまらないと切り捨てる事が出来なくなる。自分の好きなものですら、その面白さの深遠についてまるで分かってなかったというのに、他人が面白がっているものがいったい何なのかなんて分かりようがないですから。
好きなものについてどれくらい知っているのか
私の大好きな漫画の一つであるハチワンダイバーにこんな台詞がある。
「あなたは将棋を何パーセント理解していると思いますか?」
「5%くらいかな。残り95%は未知だ。」
「将棋はとてつもなく、デタラメに深い。」
「将棋というゲームは、神様がいるならきっと神から人間への贈り物だ。将棋を100%理解できたら、どうなると思う?」
「もうそれは人間(ヒト)じゃあない。神のとなりに座れる」
柴田ヨクサル ハチワンダイバー2巻 第15話「主役」より
そうゆうレベルで好きなものに出会う事が出来たら、人生はすごく豊かになるし、他人に何と言われてもまったく気にならなくなるんですよね。
同時に、一つの物事について深く深遠まで問い詰める事が出来れば、同様に他の物事にも深い深遠があるということが分かってくる。それは、何でもかんでも面白いということではなくて、自分の経験と、培ったものの見方によって、自分の知らないジャンルの事でもそこに何かとてつもない深さがある、実際に何があるのかまでは分からないけれども、確かにそこに何かがあるような直感が働くようになるんですね。これは、ひょっとして、とんでもなく凄いものなんじゃないかと。もちろんそれは直感であってまったく的外れだったり、本来気がつくべきものにまるで気がついてなかった事に後で気がつく事も多々あったりもするんですけれども、ものごとのアプローチの仕方として、これはわりと有効なんじゃないかと自分では思っています。
広く浅く物事を摂取するというのも、ものの楽しみ方のアプローチの一つ、ではあります。ただ本当に現代というのは面白いものが多すぎて、どんなにがんばったってある程度観測範囲を自分で限定せざるを得なくなってくる。であるならば、一点突破で自分の好きなものをとにかく読み込んで煮詰めて、それがとてつもない奥深さをもっている事に気付くところまで自分の読解力を鍛える。そうゆう視点を得てから他のジャンルにも目を向けてみる。そうすると世界は今までよりももっとずっと豊饒なものに見えてくる。そうゆう考え方をしてみるのも、悪くないですよね。