蜃気楼の向こうの初音ミク

ある人はそのビジュアルが好きだと言うし、またある人はその声が好きだと言う、はたまたただのプログラムだと言う人もいるし、年頃の女の子として見ている人もいる。
http://d.hatena.ne.jp/sad_smiLey3/20090923/1253722204

 人によって初音ミクに抱いているイメージが全然違ったりする。だけれどもそれがぶつかり合うことなく共存出来ている。それは初音ミクVocaloidの持つとても面白い特性の一つですよね。私にとっての初音ミクという存在は、かつてネット上に舞い降りた歌姫であり、多くのアマチュア楽家に福音をもたらしたボーカルツールであり、出会うはずがなかった音楽家や絵師、歌い手、そして聞き手とを結ぶ繋ぎ手ということになるのかな。

初音ミクという神話のおわり - 未来私考

 去年この記事を書いて以来、その後の初音ミクについてももう少しフォローをした記事を書きたいなと思いつつ、日々拡大し続ける初音ミクという像を前に筆が止まってしまっていたんですが、人の数だけ初音ミクの像がある、という前提に立って書けば良かったんですよね。

 そう。初音ミクに触れた人たちは自分が触れた範囲で初音ミクという存在をイメージし、そのごく一部の範囲ですら、初音ミクが多重に存在するものとして受け入れられていることを知ることが出来るんですよね。誰かにとっての初音ミク、私にとっての初音ミクが違うものであることを知りながら、それが部分部分で重なっていることもしっている。ここが本当に難しいところなんですけれども、人が初音ミクに初めて触れる時、それが何の色もついていない真っ白で透明な存在であると言うことは有り得ないんですよ。何らかの色のついた、誰かのフィルターを通した具体的なイメージを持たずに初音ミクに接すると言うことはもはや有り得ない。それくらいミクという存在とそれに対するイメージは種々雑多に氾濫している

 だけれども、そのあらかじめ抱いていた像というのが初音ミクVocaloidにとってごく一部でしかないことは、少し積極的にコミットすれば思い知らされずにいられないんですよね。id:sad_smiLey3さんが初めて触れたVocaloid曲である炉心融解
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 これが初めて見たVocaloid動画というのは何て幸福なんだろう(笑)とも思うんですが、それ以前に抱いていた初音ミクVocaloid―のイメージが粉々に打ち砕かれるのは間違いない。これがニッチな需要ではなく200万再生を越す押しも押されぬ人気作であるというのも更に混乱に拍車をかけるでしょう。

 あるいは文中で触れられている若干Pの「アイシンクアンシン」
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 このやるせない表情の初音さんも、初音ミクの相のひとつとして何の違和感もなく多くの人に受け入れられているというのは、外側からVocaloidブームを見ている人にはほとんど理解不能なんじゃないかという気もします。ことほど左様に、初音ミクが多用な相を持っていることが当たり前のこととして受け入れられている。一体これはどういうことなのか

蜃気楼のような初音ミク

 ここで少し我田引水気味になってしまってしまうのですが、巷に溢れている初音ミクのイメージ、初音ミクについての言説というのは、やはり発売初期の3ヶ月間で醸成された「歌姫初音ミク」というイメージに強く引きずられていると思うんですよね。ネット上に現れたバーチャルアイドルというそのイメージは周知され、初めてミクに触れる人たちに期待と警戒感を抱かせる。だけどいざ近寄ってみると、そのミクの像というというのはもはやどこにも存在しない。かつてそれがあったという残滓を残しつつも、陽炎か蜃気楼のようにかき消されて見えなくなってしまう。そして抱いていたイメージとの違いに戸惑いながらも、多くの人はそのままVocaloidの織り成す豊穣な文化を受け入れていくんですよね。

 Vocaloidによって作られた文化圏というのはもはやあまりにも広大で、とてもその全てを俯瞰することは出来ない規模になっている。ただVocaloidというツールを使っている、ボカロファミリーといわれるキャラクターを用いているという共通項しかない、あるいはそれすら取り外されて生身の人間が歌って、キャラクター色の全くないものまで含めてその文化圏に取り込んでいる。

 ジミーサムPが楽曲提供、青もふさんが歌うこの曲なんかはどこにもVocaloidの要素がないにも関わらず、確実にVocaloid文化圏のものとして受け入れられてますよね。アニメ化物語の主題歌「君の知らない物語」なんかもそうでしょう。
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 Vocaloidという存在をきっかけに本来繋がるはずのなかった、作り手同士が結ばれていく。それを聞く側は初音ミクという仮のイメージを求心力にして本来の興味から外れたものも違和感なく摂取できるようになる。それこそが、初音ミクが、Vocaloidがもたらした最大の奇跡なんじゃないかな。なんて思います。

 そんな中で「歌姫初音ミク」というイメージを前面に打ち出したライブがこの夏に開催されたというのがとても興味深くて。

何故今「初音ミクライブ」なのか

初音ミクライブが現実になった日 - 未来私考
初音ミクの「初ライブ」に泣きそうになった - ITmedia NEWS

 最初期からブームを追いかけてきた人にとっては本当に感慨深い出来事だったのですが、Vocaloid関連のライブイベント自体は、このアニサマやミクFesを待つまでもなく各地で毎月のように開催されており、どのイベントも大盛況なんですね。そしてそれらのイベントでは実のところ主役はミクではなくプロデューサーや歌い手さんがメインとなってステージを盛り上げていて、見に行く側もそれを期待してるんですよね。ブームの内側から見てみればもはやミクを主体とする必然性はどんどん薄れてしまっている。それぞれのプロデューサーや歌い手のファンへと細分化されていって、やがてVocaloidという文化圏からもゆっくりと離れていってしまう。そんな予感もある。だからこそ、今、「初音ミクライブ」なのかな、という気もしています。

 初音ミクは、ただのきっかけにすぎない。作り手と聞き手を結びつけるための触媒でしかない。そういう言い方も出来るとは思います。だけどそれをミクが実現出来たのは、何かが起きそうな予感、奇跡が起きる予感というものを誕生からの短い期間の中で人々の心の中に植え付けることが出来たからなんじゃないかとも思うんですよね。初音ミクという存在そのものには決して手が届かないからこそ、ミクFesのようなイベントで誰もがイメージし得る初音ミクという像を継承していくことも必要なんじゃないかな、なんてことも思ったりもします。