「頑張れ」という言葉

「頑張れ」という言葉はあまり使うべきではない、という話があります。頑張っている人にそれ以上頑張れと言っても意味がないしかえって追い詰めるだけだからよくない、みたいな言われ方をしますよね。だけどそれってどうも座りが悪いと言うか、じゃあスポーツの応援はどうなのよ?みたいな話になって結論が曖昧になりがちですよね。

私自身は、やはり「頑張れ」は安易に使うべきじゃないと思っているんですが、それは何故かというと「頑張れ」という言葉には、「発話者自信はなんの協力も出来ないから後は自力でやってくれ」というニュアンスを感じるんですよね。
スポーツの応援の場合、応援者が手助けを出来ない事はルールで定められていて、だからこそ、せめて声を枯らして、あるいは差し入れとか間接的な手助けをして「(これくらいのことしか出来ないけど)あとは自力で頑張ってください」という話になる。

だけど日常生活における「頑張れ」って大概そうじゃなくって、手助け出来ること、手助けして欲しいことがあっても「(俺は何も手伝わないけど)頑張れ」という形になってることがほとんどなんですよね。それは、言われるほうはたまったもんじゃない。

じゃあなんて言えばいいのかって、一番いいのは「俺に任せろ」って言えればいいんだけど、相応の責任と覚悟を伴いますよね。任せろと言って責任放棄すれば良くてホラ吹き、悪くすれば詐欺師ですから。実際に詐欺師の常套句でもありますしね。だからこそ実際に力のある言葉だとも言えます。本当に大切な人、本当に追い詰められた人を助けるにはこれくらい言わなきゃいけないんでしょうね。

そこまで責任持てない、けど少しでも励ましたい、とかね。まあそれ自体が都合のいい話なんだけど、そんな時はありきたりだけどやっぱり「よかったら話を聞くよ。力にはなれないかもしれないけど相談に乗るよ」くらいしか言う事はないかも知れません。

なんにせよ「頑張れ」という言葉を使う時はそれが突き放しになってないか、何か出来ることがあるのにそれを放棄してないかを考えるべきでしょうね。

さて、修造MADでも見るか。