「こだわるのも楽しいよね」という話

「分らなくても楽しいよね」という話 - 今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

 2年越しくらいでずっと言い続けていた話が、「あっ。伝わった」と思える瞬間。これほど嬉しいものもそうはないですよね。これは「分からなくても楽しいよね」という話にずっとこだわってきたから得られた話。…と、いきなり矛盾するような物言いで始めますが。

コメントによる補助線

 ニコニコ動画ややる夫シリーズなんかに対して「分からなくても楽しいよね」って言ってきた背景には、こういったネット上の新しい表現形式が「視聴者のコメントによる補助線」をあらかじめ織り込んでいて、それなしで接した時よりもずっと「分かっている楽しさ」に近い楽しさを味わうことが出来るから、なんですよね。「わかったほうがより楽しい」のは当然なんだけど、「いろいろ調べて知った人」が80%、90%の楽しみを得る横で、何も知らない状態で観た人が60%、70%くらいの楽しみ方を軽やかにこなしているというか。半可通でいるくらいならむしろ先入観なしでみたほうがより楽しめるなんていう逆転現象もよく見かけたりしますよね。

 でもですね。これって実はコメントで補助線を引く人が「こだわって、分かっている」からこそ出来る話でもあるんですよね。だから「分からなくても楽しんでる人」は、先人の知識にただ乗りしてるだけじゃないか、という話も当然でる。それは一面では正しいんです。正しいんだけど、でもそれは「つまらない」話でもある。さっきから一つを言っては逆のことばかり言って、何が言いたいんだと思われるかも知れませんが、順を追って説明します。

ネットによる知識共有がもたらしたもの

 これはつまるところ知識の共有の話なんですよね。一昔前は、オタク的な趣味というのはごく一部の限られた人のものでしかなかった。嗜む人が少なければ、それだけ個々人が1人で修めなければならない知識も増える。もちろん他人の知識にただ乗りして楽しむことは昔だって出来たけれども、自分のほうから何も提供できなければだいたい関係というのは疎遠になってしまうので、関係を続けるために知識を得るというなかば義務感のようなものが生じてしまう。そんな重たいのは勘弁なので、最初からオタク的な趣味には近寄らない、深入りしない、という態度もまた生じる。これがオタクが世間から断絶していた時代の大まかな構造なんじゃないかと思うんですね。

 その構造を壊したのはやはりネットの出現だと思っていて。ネットによって知識の共有の効率が飛躍的に向上した。こだわってもこだわらなくても、簡単に知識にアクセス出来る。だったらこだわりなんか捨てて、その時その時で目についたものを使い捨てるように楽しんでいけばそれだけで十分じゃないかみたいな想像力も出てくる。いわゆるライトオタク層の誕生ですね。でも、そのネットに集積されている知識というのは、降って涌いたわけじゃなくて、その背後に「こだわってきたひと」がたくさんいたからこそあるものなんですよね。もしこのままこだわる人が少なくなっていけば、いずれどこかで綻びが生じる。破綻する。そんな危機感というのは、10年くらい前からずっと抱えていた。そういった中で出会ったのがニコニコ動画だったんです。

こだわる作り手とこだわる読み手のコミュニケーション

 先ほども言ったように、ニコニコ動画におけるコメントによる補助線というのは「こだわらない人」とも面白さを共有するのに強い力を発揮します。だけど、その効能ってのはそれだけじゃないんですね。それは、作り手の側からすれば、そのコメントがあるということは「こだわって読んでくれている人がそこにいる」ことの証に他ならないんです。そこに言語を共有する読み手がいること。このことが作り手のモチベーションに与える影響というのは計り知れないものがあるんじゃないか、そう思うんです。

 それは、コメントを打つほうもまた同様で、今までは自分のこだわりをアウトプットしてもせいぜい同好の仲間を募る程度の役にしか立たなかったのが、作り手にそれが伝わる、それがまた作り手のモチベーションになっていることも可視化される。その「こだわってきたことが報われる」感覚ってのはよほど突き詰めた人しか届かなかったのが、ずっとハードルが下がっている。「こだわる作り手」と「こだわる読み手」が良い相互作用をして、その結果として「こだわらない人」も楽しめる。そういうポジティブフィードバックがそこで起こっている。

誰しもこだわりを持っている

 そう思った時に「わからないもの」と「わかるもの」をわけ隔てることにもうほとんど意味はないんだなと。こだわることにこだわることも、こだわらないことにこだわることも変わらないんだなと。そもそも人間、誰しも大なり小なりこだわりというものは、ある。かつては、いろんなものを犠牲にしてこだわり続けるか、こだわることなんてくだらないと切り捨てて深みには近寄らないみたいな二択を迫られるところがあって。だから根が古いオタク気質の人は「こだわることが正しい」「いや、こだわることは良くない」みたいな論争を果てることなく繰り返していた。

 でもそれってニコニコネイティブな新しい世代にとってはまったく意味が分からない話なんですよね。自分の小さなこだわりを発揮できる場があれば、そこではそう振る舞えばいい。わからないことはわからないなりに、周囲の力を借りて楽しめばいい。その態度は古い気質の人にはひどく軽く見えるし、そこから何も生まれないんじゃないかという危惧も出てくる。でもそうじゃないんですよね。こだわり続ける必要がないからこそ、それぞれが好きなことにはピンポイントで深く深く、どこまででもこだわることが出来る。そういう態度をとっても周囲から断絶しない。むしろピンポイントで深く深く識る人がいればいるほど周囲の人にとってもプラスが大きくなる。それは、とても豊かなことなんだと思うんです。

 だから私はこだわることが所与のことになっている古い気質の人には「わからなくても面白いよね」と言うし、逆にこだわらないことにこだわってしまう人には「それは、こだわる人がいるからだよね」と言います。両方の価値観を、どちらかではなく、等価なものだと思えるようになって、その時に本当の「こだわらないことにもこだわらない自由」が手に入るんじゃないんでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100307/p1