第8話の不出来によってコードギアスが手に入れたもの

 以前にも言ったのですが、私はコードギアスR2の第8話は、脚本や設計は素晴らしいものの、演出レベルの不出来によって、本来求められているクオリティに達していない回だったと思っています。

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 ただし、この事がコードギアスという作品にとってマイナスに働くとはあまり思っていなくて、逆にプラスに働く側面があるんじゃないかという妄想をしていたりします。

可視化された読み方の違い

 それまでのコードギアスの巷の評価というのは、面白い、すごく面白い、面白いけど自分には合わない、良くできてるけど薄っぺらい等々、受け止め方に差はあれど面白いあるいは良くできているという点では概ね一致していて、あまりそれ以上追求する空気がなかったんですよね。良くも悪くもウェルメイドの、高品質のアニメ作品であることは議論の余地がないですから。

 それが、第8話の出来が万人に受け入れられるだけの強度を持っていなかったが故に、この作品て本当のところはどうなのよ?という意見が注目を集め始めたんですね。

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 拙ブログもこの流れに便乗させていただいていますが、これまであまり語られてこなかったそれぞれのコードギアス観、コードギアスの読み方というのが衝突して可視化され、注目を集めているんですね。

消化される作品から語り得る作品へ

 コードギアスには様々な読みを許す懐の広さ、豊饒な物語を内側に抱えている。もともと、ポテンシャルはあった。しかし時代の、膨大な情報の波の中で深く語られる事なく忘れ去られてしまう危険もあった。作品の外で起こるあれやこれやの事件やトピックなどは、そうゆう忘れ去られる危険に対抗するためのものなんじゃないかという陰謀論めいた事まで考えなくもないですが…そういった騒動の中では残念ながら作品の中身については触れられてこなかったんですよね。

 それが、この第8話「百万のキセキ」が、ほんの少しいつもより出来が悪かったが故に、多くの人が自分が見ているコードギアスと他の人が見ているコードギアスが違うものだという事に、気付く事ができた。だからといってスタッフがわざとクオリティを落としたとは思いませんが。これは天恵。コードギアスという作品が今まで積み上げてきた膨大な実績があってこその、ささやかな奇跡なんですね。

 もちろん、こうやって耳目を集めてしまった以上今まで以上にクオリティが求められるし、万が一今後も望まれるクオリティが維持できなかった場合はその信用を失ってしまう可能性だってあるでしょう。

 だけれども、きっとそうはならない。コードギアスは10年後にも語り得る伝説の作品になる。信者と呼ばれそうですが(笑)そんな予感を、ヒシヒシと感じています。