ナイトオブテンの存在意義が分からない(分からなかった)

 1夜明けて、ようやく平静を取り戻してきた感がありますが…18話を何度か見返して思うのが、ナイトオブテン、ルキアーノの存在意義がなんだったのか、それがどうにもよくわからないなあとゆう事で。少し真面目に考えてみた。

 このルキアーノというキャラは誰が見ても一目で分かる小悪党キャラで、ああこれは主人公サイドの英雄性を引き立てるための噛ませ犬キャラなのだろうなあという予想を誰もがしていて、実際にカレンの駆る新型紅蓮のデビュー戦の相手として期待通りに無残に散っていったわけなのだが…果たしてこれがカレンの英雄性を高めるのに一役買っているかというと、いまいち判然としない…。

 というのも、やはりこの行動の結果として視聴者の目の前に突きつけられたのがフレイヤの閃光という、本来最も阻止しなくてはならなかった最悪の事態であると言うこともあるし、またカレンそして紅蓮聖天八極式の描かれ方が…善性の発露ではなく怒りによる暴力の発動といった印象を強く抱きかねない描写になっているんですね。スザクの行く手を阻む紅蓮八極式が戦火に照らされる様はまるで仁王か地獄の鬼かという様相で…明らかにこれは正義の執行者としては、描かれていない。

 また当のルキアーノにしてもカレンに“あんたちょっと下品だよ!”となじられたように、非常に、視聴者に対して不快感を抱かせるようなキャラクターとして造型されているのだが…彼のやっていることは戦場において敵対するものを殺す、言ってみれば当たり前のことをしているだけで、結果だけを掬い取って見れば、それはカレンやスザク、ジノたちと何ら変わることのないんですよね。

彼を慕う部下がいる

 そして何よりも特筆すべきなのが、このあきらかに視聴者に嫌われるために造型されたキャラクターに、彼を慕ってついてくる部下を配している…しかもかわいい女の子だけで構成されたバルキリー隊…その中にはかつて純血派でジェレミアと肩を並べたキューエルの妹までいる…そうゆう腹心の部下を持っているんですね。彼女たちがルキアーノと同様に嗜虐趣味の強い魔女のようであればそれは不思議でもないのだが…少なくとも作中の描写はそうはなっていない…あくまで健気に闘い健気に散っていく…こんな良い子たちが何故あんな猟奇殺人者の部下なのか…訝しく思う人も多いのではないかと思うのですが。

戦争を楽しむとはどうゆう事なのか

 戦場において、戦士と戦士が己の技量と誇りをかけて正々堂々と渡り合う…それは太古の昔から物語の中で尊ばれるものとして描かれてきて、そういった誇りを賭けて喜々として戦う人物たちのことを我々は英雄と呼んで称揚しているわけですが…果たして彼らの戦争を楽しむという考えは、それはルキアーノが合法殺人の場として戦争を楽しむことと、何が違うのか。それは違う、決定的に何かが違うという声が、心の奥底から確かに聞こえてくる。しかし、目の前の戦闘を楽しみ、結果として本来守るべきものを守れなかったのだとしたら…それは結局のところ自己満足でしかないのではないかという疑念も持ち上がる…。

英雄のいない世界

 18話の展開を放映される前にある程度予想していたりしたのだが、それはピンチに陥ったナナリーを、スザクなりカレンなりが英雄的行動によって救出し、その返す刀でナイトオブテンを撃破しその英雄性をより際だたせるのではないかというベタなものがひとつあって、実際に今回の中盤までの展開は、そういった予感を視聴者に抱かせるような作りになっている。カレンがいれば大丈夫、ナナリーに何かがあってもきっとカレンが救ってくれる、実際そう思って見ていた…だからこそ、何事もなく誰も何も行動を起こすことすら出来ずにナナリーが光に包まれていく絵にただ呆然とするしかなかったのだが…。

ナイトオブテンの果たした役割はなんだったのか

 話を戻す。それで結局ナイトオブテンとはなんだったのか。視聴者の溜飲を下げるためだけの小悪党としての機能ははっきり言って全く果たしているとは言い難い。彼はしょせんただの一兵卒であり、それは物語に何の寄与もしていない…。そしてことナナリーの消息に関して言えば、スザクもカレンもルルーシュも、戦場にいる誰もが一様に無力で…なんら物語を推進することが出来ない…それは彼らが英雄ではなく戦場における駒のひとつに過ぎない、一兵卒に過ぎないという無力感を高める為に出張って来たのかも知れない…演出コストとして妥当かどうかは少々疑問の残るところではあるが…。実際目の前の小悪党を感情にまかせて打ち倒したところで、紅蓮聖天八極式が戦局をひっくり返すほどのポテンシャルを持っていたところで、ひっくり返せない現実というのもある…それはただ打ちひしがれるしかない…そうゆうことなんでしょうかね。

 …うーん、やっぱりよくわからない(笑)