フリーはパイを増やす

今日もサラッと15分くらいで思ったことを書き留めておこうと思ったら1時間くらい立ってた…例によって引用や資料のないチラシの裏話なのでご了承ください。

先日、正月の真っ昼間にLDさんとペトロニウスさん、海燕さんと突発的にネットラジオをしたのですが、その時に出たフリーの話で言い足りなかった、というか言い損なったことについて補足しておこうかと思います。

ペトロニウスさんの指摘で「フリーのビジネスモデルというのはわかるけど、それは結局今まで支えてた人が継続して支払ってるだけで先細りなんじゃないか(意訳)」という話があって、これはとても鋭い指摘で、今はそれで回っているように見えても新しい人が入って来なかったら文化として成り立たないんですよね。これはフリーに懐疑的な立場を取っている人に割りと共通している問題意識なんじゃないかと思います。

それに対して、コンテンツビジネスの経済規模は実は大したことはないんだ、という切り返しをしたのですが、いかにも説明が不十分だったので補足しておきます。

娯楽産業という巨大なパイ全体に対してコンテンツビジネス…知的欲求を満たす娯楽全般と言ってもよいですが、それは実のところそんなに大きくない。せいぜい数分の1下手したら10分の1くらいで、遊興費…遊び金というのをそういったものに注ぎ込むのは元々ごく一部なんですよね。

実際、出版音楽映画ゲームその他諸々含めたコンテンツビジネスの規模というのはこの国ではここ20年くらい、だいたい2兆円くらいで頭打ちで増えても減ってもいない。この人たちがフリーの時代になってコンテンツにお金を払わなくなるかというとそんなことはないんですよね。さて問題は生まれた時からフリーが当たり前だった新しい世代です。彼らはフリーが当たり前だからといって大人になってもお金を落とさないのでしょうか。

結論から言えば「そうは思わない」んですよね。ちょっと考えてみてほしいのですが、今コンテンツに積極的にお金を払っている層というのが子供のころに自分のお小遣いの範囲内でしかコンテンツに触れなかったという人が果たしているのだろうか、ということです。

子供のころから浴びるほど本を読んだ、音楽を聞いた。そういう人たちは大抵親の金なり、公共の図書館なり、友達や兄弟、近所のお兄さんお姉さんなりに頼って大量摂取してきたはずです。そして大量摂取することによってそれらをますます好きになり、長じて自分のお金を使えるようになるとそれらにお金を使うようになる。それがサイクルになってるんですよね。

好きなものに遊興費を使うというのは、それ自体が快楽なんです。大事なのは、それを世に送り出すために金銭を含めた手間がかかっていて、それを支えてきた人がいたということ。それさえちゃんと伝達出来れば後に続く人たちもまた「支える人」になる。誰だって自分の好きなものがこの世界からなくなってしまうのは耐えられないですから。

フリーが広がると、この大量摂取する層というのがより一層分厚くなる。というと、情報が飽和してしまうと選ぶということが出来なくなる、結果深くコミットしなくなるという危惧を言う人が出てきますが、本当にそうでしょうか?というのは、情報の飽和なんてネット時代を待たずしてとっくにはじまっているでしょう?ということです。すでに世界には選びきれないほどの情報が溢れていて、ほとんどの人はその上澄みに触れるだけで済ましている。そうでしょう?

そうではない人、個別のジャンルに深くコミットする人、あるいは広く体系だったものの見方をする人というのは「敢えて」それを選んだ人なんです。そして支える人になるのはそういった「敢えて選んだ人」なんです。

フリーの構造は、まず第一にコンテンツを浴びるように摂取する環境を拡大する。そして、作り手と受け手の関係をよりダイレクトにするんですよね。支える人がいなければ作る人は成り立たない。それは今までは版元が担保することで受け手には見えづらい構造になっていた。それがネットの発達によって誰がどんな支援を欲しているのかが目に見えるようになってきた。

分母が増える。インセンティブがある。導線がハッキリしている。そうなれば支える人が増えない道理はないんです。今は特に導線の部分がまだ不十分で、実感のわかない人も多いとも思います。だけど世界は確実にその方向に向かっている。もちろん個別の問題はいろいろあります。価値が並列化して中心がなくなってしまうことなんかはこの10年繰り返し議論されてたりしますしね。そのあたりに思う事もないではないですが、今日はこんなところで。