いまさらだけどシレン3を批評してみる

 Wiiで発売されたチュンソフト風来のシレン3。このシリーズは第1作の大ファンなので基本的に新作が出たら購入しているのだが、今作は数回ゲームオーバーになったところでプレイの続行を断念しました。まあ既に各所で酷評されているので今更ではありますが、今後もプレイを再開することはないと思われますので、思うところなどを書き綴ってみようかなと。

 私がこのシリーズを好きなのは、ローグライクというゲームシステムが優れた物語発生装置として機能しているからだ。それはプレイごと、プレイヤーごとに唯一無二のただひとつの体験が得られるということ。だから何度でも繰り返しプレイできるし、実際第1作を3000回以上プレイしている今でも、たまにプレイすると思いもよらない新しい体験を得ることがある。だから新作に期待しているのも同じ種類の感動、プレイするたびに発見がある、プレイするたびに違う光景が見える、そうゆうものなんですね。

 しかしこのシレン3においては、その物語発生装置としての面白さが完全にスポイルされてしまっている。誰がやっても同じ体験、同じ光景。先に進むために必要な手順があまりにも明瞭で、工夫の余地がまるで感じられない。いったいぜんたい何故こんなことになってしまったのか。

 シレンシリーズは昔から初心者に対する敷居が高いと言われている。それは、プレイヤーのスキルがある一定以上まで上達しなければどれだけ時間を費やしてもクリアすることが出来ないのが最大の要因だ。誰でも時間をかければ必ずクリア出来ること。それがRPGというジャンルに求められているとするならば、それは確かに作り手としては挑戦するべき事柄だろう。そしてシレン3は、おそらくは、確かに時間さえかければ誰でもクリア出来るように作られているように思う。しかしそれと、最後までプレイを続けるモチベーションを維持させることとはまったく別の話だ。そのためにシリーズが本来持っていた魅力を失ってしまっては本末転倒も甚だしい。

不思議のダンジョン2 風来のシレン

不思議のダンジョン2 風来のシレン


レベル継続制について

 各要素について言及しよう。まずもっとも批判の集中している、ゲームオーバー時のレベル継続という変更について。私は、レベルが継続することが必ずしもシレンシリーズの魅力を損なうとは思っていない。意味があるとも思っていないが。レベル継続制の最大の問題点は、難易度のコントロールが非常にシビアになってしまうということだ。

 常にスタート時のレベルが1であれば、ダンジョンをデザインする際に各階到達時までに必要な適性レベルをコントロールするだけで済む。しかしスタート時のレベルがまちまちであると、その分だけあらゆるシチュエーションに対応したダンジョン設計をしなければいけなくなる。この部分で手を抜くとどうなるか。特定のレベル、装備以下では絶対にクリア出来ず、逆にある一定レベル以上であれば拍子抜けするほど簡単にクリア出来てしまうピーキーなダンジョンの出来上がりだ。1階に突入した時点でクリア可能か不可能かの判断が簡単についてしまう。これでは挑戦意欲が起きようがない。一応、それをカバーするために、1つのダンジョンの構成階層数を少なくして、低レベルでも力押しでクリア可能なようにしてはある。なんとも付け焼き刃な対応法ではあるが。

 レベル継続制の問題点はもう一つある。それは、いざゲームオーバーになった際のリスクが大幅に上昇してしまうということだ。
 従来のシレンシリーズ、ローグライク一般は、本当に良くゲームオーバーになる。何度も何度も簡単に死んでしまえる。第1作は3000回以上遊んだと最初に言ったが、それは3000回以上死んでいるということ。そして、そのほとんどが低階層、低レベルでのゲームオーバーだ。それでも延々とプレイを続けるのは、死ぬことで自分のプレイの欠点を理解し、次のプレイでは“もっと上手くやってみせる”という挑戦心をくすぐられるからなんですね。
 レベル継続によってゲームオーバーから次のゲームオーバーまでの間隔が拡がること。それはシレンの醍醐味であるトライ&エラーの面白さをスポイルしてしまうこと。そしてもう一つ、これはあまり指摘されていないことなのだが、長時間のプレイによって蓄積されたアイテムが一瞬で無に帰すこと、このダメージが逆に大きくなってしまうんですね。

風来のシレンDS お買い得版

風来のシレンDS お買い得版


風来救助隊という革命

 もちろん、それに対するセーフティネットは用意されている。それはシリーズ途中から採用されている風来救助隊というシステム。私はこのシステムは非常に高く評価していて、ローグライクゲームにおける革命だとすら思っています。毎回ダンジョンがランダムに変化するローグライクゲームは、それ故に毎回違う体験が出来る。だけれどもそれは、他の人と同じ冒険を共有することができないということでもあるんですね。風来救助隊というシステムは、自分が途中で攻略に失敗したダンジョンを他のプレイヤーと共有するという新しい魅力を提供しつつ、プレイスキルの未熟さゆえに攻略が出来ないビギナーの救済という側面を持つ画期的なアイデアなんですね。これがあるからシレン3は、多少(どころではないとはおもうが)雑なデザインをしていても、ぎりぎりゲームとして成立している。それくらいに思っています。
 救助隊のシステムってニコニコ動画等でよく言われる疑似同期の面白さなんですよね。同じ体験を、時間軸のずれたプレイヤーが共有する。このラインの先には非常に可能性を感じるのですが…実際のところ最初に採用された時から何か進歩したような気がしないのが悲しいところではあります。


致命的なほどにつまらないボス戦

 さて、多少持ち上げたところで、このゲームにおける最大のモチベーション減衰要素、ボス戦について触れなければならない。ローグライクゲームは死んだら1からやり直しという基本設計であるため、コツが掴めないと各プレイでの達成感を得ることが難しい。それが初心者を遠ざけている一要因であることは、否定できない。それゆえにシナリオを短く区切って、その各シナリオの関所としてボス戦を配し小さな達成感をプレイヤーに与えよう。その発想自体は、まったく間違ってはいない。あくまで、発想は。しかし実際に実現されたそれは、ボス戦と呼ぶにはあまりにも無残な、ただの壁。次のステージの適正レベルを計るためだけのリトマス試験紙。それだけの存在なんですね。これは、本当に、ヒドイ。
 ゼルダの伝説ワンダと巨像…あまたの名作と呼ばれるゲームの中でもこの2作はボス戦の面白さという点で屈指の存在だと思っています。何故ゼルダやワンダのボス戦はこれほどまで面白いのか。それは、ボスを倒すための手順、発想をする面白さ、それを実際のプレイで実現するために試行錯誤する面白さが凝縮されているからなんですね。初見時にまったく勝てる気がしない圧倒的な力を見せつけ、それを手持ちのリソースの組み合わせ、相手の行動パターンの観察によって活路を見いだし突破する。それが成功した時の快感は何事にも代えられず…世の中にはストーリーのネタバレは許すがボス戦の攻略法のネタバレは絶対に許さないという人もいるくらいです。それは、ミステリのトリックを読む前に明かされるようなものですから当然ですね。然るに、シレン3のボス戦はどうなのか。

 タブーを破ってその攻略法をバラしてしまいましょう。耳を塞ぐ必要はありませんよ。何しろ全てのボスが同じ攻略法で勝てますから。それは、そのダンジョンを片手間でプレイしても突破できるくらいのレベル、装備を整えてボス戦を迎えること。以上です。これには、本当に呆れてものも言えませんでしたね。ゲームデザインというものが根本からわかっていないとしか思えない。当然、ほうほうの体でぎりぎりの装備でボス戦を迎えた場合、100%の確率で負けることはわかっているのですが、撤退することも、救助を求める事も出来ません。いわゆるハマリというやつですね。スリルのある冒険を求めるのは不適当だと。コツコツとキャラクターを鍛えて安全圏に達してからストーリーを進めるものだけが正しいと。このゲームはプレイヤーにそう言ってきているわけですね。もちろん、私は途中までしかゲームを進めていません。だからその後のボス戦もすべからくそうなのかどうかは、定かではない。しかし、序盤における数度のそれは、それだけでプレイのモチベーションを打ち砕くに十分なくらい、ヒドイものだった。これは、哲学の問題です。プレイヤーにどうゆう姿勢を求めるのか。ゲームを通してどういった体験を与えたいのか。ゲームデザインの根本はつまりそうゆうことだと思っています。シレン3というタイトルは、それについて十分な吟味がなされていたとは思えない。結果として、こうゆうゲームになった。その哲学に協調出来るものにはそれなりに楽しい体験となるでしょう。しかし、それは従来のシリーズが持っていた哲学とは、決定的なまでに違いすぎる。そんなゲームをプレイ継続する理由は、残念ながら見出すことができなかった。

ワンダと巨像 PlayStation 2 the Best

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ファミコンミニ ゼルダの伝説1

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ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス - Wii

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仲間システムという可能性

 以上でこのタイトルに対して言いたいことは言い尽くした感はあるが…最後に一つだけ、ほんのわずかな光明を感じた新要素、自律行動する仲間というシステムの可能性について触れておきたい。
 仲間システムについての不満、否定意見というのは既に各所で言及されていて、それ自体にはまったく反論するところはない。いわくAIがバカすぎる、仲間が死んだら全滅扱いはヒドい、仲間の管理に手間を取られてテンポが悪い…etc…すべてまったくその通りだと思う。しかし、それでもこの仲間システムというのは、今後ローグライクゲームが進化発展していくための、ニューカマーとベテランがどちらも満足出来るゲームデザインを実現するための、ほとんど唯一の可能性、希望だと思うんですね。
 それは、仲間という存在が、プレイヤーの熟練度によって、初心者にとってはプレイをアシストする存在として、ベテランにとってはプレイの難易度を維持する存在として、ハンデキャップを与えることが可能だからなんですね。繰り返しますが、シレン3のそれが、そうなっているとは言いません。あくまで、可能性です。仲間を、最初からハンデキャップを調整するための機能としてデザインすれば、あるいはそうゆう役割を果たすことが出来るのではないか、という妄想の域を出ない話です。
 AIのバカさに関しては、ある程度許容するしかない。しかしそれはちょっとした発想の転換で利点に変えられるんですね。まず、AIキャラの性能の底上げをどうするか。それは、AIにチートをさせてしまえばいい。プレイヤーが見えない情報、敵のパラメータ、特殊能力、マップ上の位置、そういったものを全て把握した状態で行動させれば、ある程度以上のプレイヤー以外にとっては、自分より遥かに頼りになるプレイを先導する師匠として機能する。そしてプレイヤーレベルがあがれば、本来知り得ない情報を元に動くAIを見て、一歩先の戦略を組むための、頼りになる相棒となる。そして更にプレイヤーのレベルが上がった時、より理想のプレイングのために逆にAIを導く。そうゆう対象としてAIキャラを設計することが出来れば、それは従来のローグライクにはない、全く新しい体験を提供することが、出来るかもしれない。
 だから私は、シレン3におけるそれがどうであったかということはさておいて、仲間システムというものを導入したことそのものは、最大限に評価したい。願わくば、今作での失敗を次回に活かしてくれる事を祈って。


最後に

 こうしてシレン3の設計の全体を見渡して思うのは、導入された各要素そのものは、決して悪くはない、あるいは思惑通りに機能すれば非常に優れたゲームに成り得たかもしれないんですね。しかし、結果として目の前に現れたのは、プレイヤーにどういった体験を提供したいのかが意味不明なちぐはぐなシロモノになってしまった。何故か。それは全体を統合するための強固な意志、プレイヤーにゲームプレイを通じて伝えるべき哲学、そういったものが根本的に欠如していたのではないかと考えています。
 あるいはそうゆう哲学をしっかり持ったゲームというもののほうが、少ないのかもしれない。しかしそれがなければ、良くてどこかでみた他のゲームの二番煎じ、悪くすれば今作のように要素同士が潰し合って空中分解するようなシロモノに仕上がってしまう。

 繰り返して言います。ゲームデザインにおいてもっとも重要なのは、そのゲームプレイを通じて、プレイヤーにどうゆう体験をさせたいのか、どうゆう哲学を与えたいのか、それを明確に設定することなんだと。それは、ゲームに限らずあらゆる創作物にも共通して言えることだとは思います。それが出来ているゲームが増える事を願ってやみません。