フィクションの中で人が死ぬということ

 “ぼくはただ、人が人を殺めるということを止めたかっただけなのに”

 コードギアスR2第20話「皇帝失格」を見て、どうにも釈然としない気持ちのまま、丸一日が経過してしまいました。前話「裏切り」にて判明したフレイヤの犠牲者、2500万人の事が、トゲのように引っかかって離れないんですね。その数の妥当性についてではなく(それについてはこちらで言及しましたが)、20話の作中で、その膨大な数の死者のもたらす事態について、なんら描写がなかったんですよね。これが、とても居心地が悪い。見ていて、胃がきりきりしてくる。繰り返しますが、数の問題ではないんです。それが、仮に本当に起こったことだとして、当然あるべき描写が存在しないこと。それが、どうにも腑に落ちないんです。

 コードギアスという作品は、とにかく沢山の人が、死んでいきます。名前のある人もない人も、意思を持って殺し殺される人も、罪なき無辜の人も、容赦なく、次々と死んでいく。その一つ一つにつらかったり苦しかったり悲しかったり怒りを覚えたりしながらもずっとこの作品を見続けて来たのは、コードギアスという作品が死というものの実際について逃げずに真正面から描写をしてきたからなんですね。

 1期3話において、クロヴィスを直接手にかけたルルーシュが吐き戻すシーン…人を殺めるということの肌触りの気持ち悪さ。12話で知らされるシャーリーの父の死…戦争に巻き込まれる無辜の人々の存在。ブラックリベリオンにて一兵卒としてなんの見せ場もなく散っていった井上や吉田、第1話の物語が動き出す前に死んでしまった永田の写真が今回のエピソードで一瞬映し出されますが…そうゆう直接物語に関わってこない人たちにも名前があって、家族や友人や恋人がいて、それをずっと覚えていてくれる人たちがいる。そうゆう当たり前のことを当たり前のこととしてちゃんと描写できている。それが、私がコードギアスという作品とそのスタッフを信頼する根拠なんですよね。

 翻って今回、これほどの惨禍の中で運良く生き残る事が出来たミレイやリヴァル…彼らの生存自体はとても喜ばしいことなのですが…彼らにも家族や友人がいて、その全てが無事逃げおおせたとは考えづらい。そのことについてなんらかの言葉があっても、あるいは言葉にならなくてもその理不尽に対する感情の発露があってもよかったのではないかと。
 あるいは、フレイヤ弾頭を撃ったスザクがその“功績”を主張するシーン。フレイヤが威力を発揮したことが戦略的に意味があること自体は、それは問題はない。しかし数千万人の犠牲者の中には、ナナリーやギルフォード…その場にいた人々の知人や友人だけでなく、ブリタニア軍の多くの兵卒の家族や友人もその中にいたことは想像に難くない。フレイヤを撃つということは、それを公表するということは、それによって親類知己を失った全ての人の怒りや悲しみを受け止めるということ。それについての想像力がないのが…とても悲しかった。それは、シュナイゼルが語る“政治を、戦争をゲームとして扱う”態度に他ならないのだから。

 今回のエピソードは作画面を含めて、作りの荒い部分が多々見られ、コードギアスという作品に求められる水準に達していない回と言っていいと思う。上記の話も、演出面で意図したとおりの画面を作る事が出来なかったということなのかもしれない。いまだに永田のことを忘れずに演出できるスタッフは十分に信頼に値するし、あと残り5話の中で、フレイヤの巻き起こした惨禍の結果についてもなんらかの描写がなされるのだろうとは、思います。

 それでも、やはり今話の中でその重みの一部でも描写があって欲しかった。その意味では、今回唯一まともに見えたは、実はニーナだったのかもしれないですね。