「だらしねぇな」から始まる哲学―ガチムチ動画とビリー・ヘリントン人気についての一考察―

 始めはネタだと思っていた。いや、つい最近までニコ厨のいつもの悪ノリくらいにしか考えていなかった。それが今回のビリー・ヘリントン氏来日をきっかけに関連動画、関連記事を見ていくなかでどうやら少し考えを改めつつある。このブームは、一過性のものではないかもしれない。まだこの現象の正体について確信があるわけではないが、とりあえず思うままに書いてみたい。

ASCII.jp:歪みねぇ兄貴の強く生きる言葉、ニコニ国賓が来日 (1/3)

 ゲイポルノムービーを素材としたMAD動画、ガチムチパンツレスリングの歴史は意外に古い。ニコニコ動画上で最初に注目され、今や150万再生を超える兄貴動画の総本山が投稿されたのは2007年8月(一度削除されており、現存する動画は2007年9月30日の投稿)。

 以来数多のMADが制作され、動画数3000本を超える一大ジャンルにまで成長している。いったい何故ここまで人気が継続しているのか。
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音MAD素材としての素性のよさ

 それまでいくつか秀逸なMADはあったものの、基本的には釣り動画だったガチムチシリーズの転機となったのはこの動画だと思われる。

 ケツドラム…いわゆるスパンキングを主体としたリズミカルな音いじりが音MAD職人の魂に日をつけたのか、これ以降非常にレベルの高い編集がされたガチムチ動画が定期的に投稿されるようになる。なにしろ見た目のインパクトは絶大である。そして音MAD特有の中毒性と相まって熱狂的なファンの下地を作っていったことは想像に難くない。

定期的に投稿される本編動画

 MADの素材となる、無加工の本編動画が月に数本のペースで定期的に投稿されていると言うのもガチムチ動画の人気を下支えしているように思う。言うまでもないことではあるが、これらの動画は無断アップロードであり、本来的には褒められたものではない。が、とりあえず権利者削除される事態には今のところ発展していない模様である。とはいえ、元々がポルノであるので、局部に隠しが入っていないものは容赦なく削除されているようだ。
兄貴本編リンクとは (アニキホンペンリンクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
 この本編動画を舞台にして、空耳、出演男優のキャラ化、物語の捏造といった遊びが、動画上や2chのガチムチ関連スレッドで日夜繰り広げられており、そこで発掘されたネタがMADに還元されてよりネタとして高度化していくという好循環が起きているようだ。

大規模な祭の定着

 これは各所で言及されていることだが、ガチムチ動画は元々ランキング工作に対するアンチテーゼとして祭り上げられたという経緯があり、折に触れて愛好者が一斉に堂々とランキング工作するというのが定例の祭となっている。2008年は2月14日(バレンタインゲイ)、3月14日(白濁DAY)、7月14日(兄貴誕生祭)、12月31日(糞晦日)に祭が行われており、おそらくは今年もそれを踏襲することになると予想されている。特に昨年の7月14日は毎時ランキングの占有率93%という暴挙を達成しており、もしビリー氏の再来日が7月14日になった場合にはとてつもない大規模な祭に発展する可能性がある。


 以上は、ガチムチ動画がこれまでに積み上げてきた実績の分析である。音MADとの相性のよさ、定期的に補給される素材、製作者の団結力の強さ、これだけでも一大ジャンルを築くに十分な要素を兼ね備えているといっていいと思われる。とはいえ、ガチムチ動画及び兄貴の魅力はこれだけでは言い表せない部分も多い。ここからはその魅力について主観を交えながら考察していきたい。

嘘から出たマコト

 ガチムチ本編における空耳、キャラクター、そして物語と言うのはニコ厨が勝手に捏造した、架空の物語なのは言うまでもない。しかし繰り返し視聴され、ネタ同士が切磋琢磨する中で残っていく設定と言うのはある程度以上動画との親和性、その動画中に表れている人格のようなものを、いつの間にか拾い上げていた可能性は否定できないのではないかと思っている。今回来日したビリーヘリントン氏が動画上で想像されているようなマッチョなナイスガイそのままのキャラクターを演じることが出来たのは、元々動画中に表れているキャラクターがビリー氏の元々の素養だった可能性は高い。
 もちろんそれは受け手であるニコ厨の勝手な思い込みと言えばそれまでではあるが、少なくともビリー氏にとって受け入れがたいものではなかったという程度には考えてもよいのではないか。そもそも今回のサプライズ来日自体が誰も予想だにしない出来事であり、ビリー氏自身がそれを望まなければ敢えて来日して兄貴のキャラを演じる必然性はない。ビデオレターや文書によるコメントだけでもニコ厨は十分満足したはずだし、おそらくはFigma制作の許可を取りに出向いたスタッフも生出演をしてもらえるとは思っていなかったのではないかと思っている。

 にもかかわらず兄貴は日本のニコ厨の前に姿を現し、ニコ厨と共に動画上の「兄貴」を演じ、再来日を約束して帰っていった。それは氏がショービズの世界の人間だったということももちろんあるとは思う。だが、それ以上に、ビリー氏自身が動画上の「兄貴」を面白いと感じ、あるいはそこに自らが演じるにたる魅力を見出してくれたのではないかと信じたい。
 仮にそうだったとしても、もちろんそれは偶然の産物だ。しかしこの偶然は、穴が開くほど動画を見続け、兄貴の一挙手一踏足に注視したガチムチ愛好者たちの愛情の賜物といって差し支えないのではないかとも考えている。MADは時に素材となる人物・作品をズタズタに切り裂いてしまう暴力性も孕んでいる。しかしガチムチ動画においてその不幸は起きなかった。それは、ガチムチブーム中期において確立した「妖精哲学の三信」の存在も大きく作用しているのかもしれない。

妖精哲学の三信とは (ヨウセイテツガクノサンシンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

「だらしねぇな」から始まる哲学

 「哲学」というタグはガチムチ動画の定番タグとして最初期から用いられていた。意味のよくわからない動画に対する一種の皮肉めいた意図があったのだとは思うが、いつの間にかこれらの動画群から実際に人生哲学を引き出そうというネタが定番化していった。その中からひとつの決定版として誕生したのが「妖精哲学の三信」である。

だらしねぇという 戒めの心
歪みねぇという  賛美の心
仕方ないという  許容の心

 定番空耳である「最近だらしねぇな」「歪みねぇな」「仕方ないね」という言葉から導かれた教訓。一般に一番多く使用されるのは「歪みねぇな」という賛美の心なのだが、この訓示が「だらしねぇな」から始まる事に特に注目をしたい。

 「だらしねぇ」というのは、他人に向かって発するには実は結構強い言葉だ。何事か失敗した人間に向かって「だらしねぇな」なんて気軽に言う事は本来憚られてしかるべきことである。にもかかわらず、いや、だからこそ、この言葉を文脈が通じる相手に発したとき、非常に強く感得するものがある。一見松岡修三の無責任な鼓舞と同種の性質の言葉ではあるのだが、受け手がそれを真に受けるか否かによって「歪みねぇな」という賛辞にも「仕方ないね」という許容にも転じることが出来るという柔軟性を併せ持っているのが、妖精哲学の三信の懐の深さである。

 もしこの言葉の含意をビリー氏に的確に伝えることが出来たならば、それはビリー氏があえて「兄貴」を演じるに足る十分な理由になるのではないか。

 もともと、ガチムチパンツレスリングはただのポルノだ。読み捨てられて忘れ去られるものの代名詞であるポルノそのものだ。それは役者であるビリー氏も十分自覚しているものだと思っている。そこに、何か普遍的な価値を見出そうとしている人たちがいる。たとえそれが言語の意味を無視した空耳だったとしても、それは果たして本当に本人にとって迷惑にしかならないのか?そうではない可能性も十分あるのではないか。と。

 今回の来日を前にして、ビリー氏の実際の姿を見ることで今までガチムチ動画が築きあげてきた価値観というものが雲散霧消してしまうのではないかという危惧が、やはりあちこちで散見された。もし目の前に現れたのが「だらしねぇ兄貴」だったとき、果たしてそれを「仕方ないね」と受け流せるかどうかという度量を図らずも突きつけられてしまったわけだ。結果として我々の目の前に現れたビリー・ヘリントンは、まさに「歪みねぇ兄貴」そのものを演じきって見せることでガチムチファンの中に深い畏敬の念を刻んでいくこととなった。ガチムチコミュニティは兄貴の懐の深さに救われたわけだ。
 今回の馬鹿騒ぎを気にガチムチブームが収束してしまうのではないかと言う危惧もある。が、恐らくはそうはならないだろう。3月14日に向けて仕込みをしているMAD製作者は多数いるであろうし、それ以上に、7月の誕生祭の再来日時に兄貴にだらしねぇ姿を見せるわけにはいかないという決心をしたファンは多数存在するものと思われる。

 正直、その後のことはよくわからない。しかしこの祭はまだしばらく続くと言うことだけは、確信を持っている。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090217/1234826907
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