富野由悠季はガンダムを乗り越える
今日発売のガンダムエースに掲載された富野由悠季×安彦良和の対談が本当に素晴らしかった。素晴らしすぎて全文引用したいくらいだがまだ出たばかりの雑誌なので自重したい。是非書店まで行って読んで欲しい。
冒頭でまずお台場の1/1ガンダムについて触れているんですが、
最初からこのプランを聞いていたら絶対潰してたでしょうから、僕の知らないところでゴーサインが出て、結果的にこんな素晴らしいものを見られたのは本当に良かったと思います。
この言葉に本当に実感がこもっていて良いですね。富野ウォッチャーで長年富野監督を見守って来た人たちならこの感覚が分かるとは思うんですが、富野監督はこんな企画には絶対OKださないんですよね(笑)。いい大人が、何を馬鹿なことを言っているんだって。でも、いい大人が、馬鹿なことを、大まじめに取り組んでみたら、結果的にこんな素晴らしいものが出来た。それを大勢の人が見て、そこにガンダムがあるという情景を受け入れている。これって本当に画期的で、素晴らしいですよね。本当に、実際に実物が出来るまでこんな感慨を抱くなんて想像出来なかったですし。そこに実物大のガンダムが実際にあるという、モノのもつ圧倒的な存在感というのは、やってみなきゃわからなかった。この体験が富野監督に与えたポジティブな影響というのは計り知れないんじゃないかなと。
僕はオリジンを描くことで、いくつか再認識したことがあったんですね。その一つが、ファーストというのは何て大人な話なんだろうということです。バカだったり、だらしがなかったり、嘘つきだったりするんだけど、そういう困った大人たちに対するものすごく温かい視線があるんですよ
安彦さんの発言ですが、今、バンダイチャンネルでの無料放送で序盤の数話を改めて見て、同様の感想をもっていたところだったのでこれもまた感慨深いですね。本当に、どうしようもない人間のしょうもなさが描かれてるんだけど、それを決して否定はしてなくて、ありのままの人間の有様を描いている。だから今見てもまったく古臭くならないし、ほんの端役のキャラクターたちにも愛嬌がある。30年愛され続ける物語というのはこういうものだというのをまざまざと見せつけられますね。
で、僕の場合、今回の1/1でまた吹っ切れたんですよ。吹っ切れたから、ガンダム的であろうがなかろうが、もう一度作品を作ろうと思えるようになった。1/1の発案者は、僕が汲み取ったような意味を汲み取ることはできないだろうけど、僕はそれを汲み取った上で作るアニメ発の物語、ガンダム的な物語を鮮明に構築することができたんです。もちろん、シリーズを作らせてもらえるかは分かりませんが、少なくともこれだけキャリアを積んだ年寄りをなめるな、と言える何かを呈示することは出来るかも知れない。だから僕は今、絶対に過去を振り向く気はないんです。
ターンエーガンダムで過去の呪縛から解き放たれた富野監督ですが、ターンエーは本当に素晴らしい物語なのですが、残念ながら商業的には成功したとは言い難かった。それはもちろん、ガンダムというイコンをあえて外したビジュアル面であるとか、プロモーション的にもガンダム的ではない何かを作ろうという意欲があって、それが結果として市場に受け入れられなかったところはあるんですが、1/1の持つ力というのを見せつけられた時に、ガンダム的な物語を引き受けた上でもう一度作品を作ってみようと思えたという。ついにここまで富野監督はガンダムに対して前向きになることが出来たのかと。あれほどガンダムというものを恨み、呪い、汚濁にまみれて苦しんでいた富野監督が、それらを全部克服してこんなにわかりやすい言葉でガンダムに向き合うことが出来たんだと。
少なくともファーストガンダムはコモンセンスだけで作った。分かりやすく言うと、右翼でも左翼でもなくニュートラルを貫いたんです。朝鮮戦争までの戦争の図式に則って、それを反戦でも軍国主義でもなく、ただひたすらニュートラルを意識して戦争を描いた。だから僕の主義は一切ガンダムには入れてません。子供が見るかも知れないんだから、絶対に右にも左にもブレないという覚悟をもって作ったんです。
これもファーストを実際に見てよくよく実感することなんですが、だからこそファーストガンダムというのは見るたびに新たな発見がある。良いも悪いも何も言ってくれないからこそ、その時の自分の心を映すように答えを返してくれる。自分の心が成長するごとに、今まで見えてなかった部分の意図が分かるようになってくる。だからこそファーストガンダムという作品はここまで多くの人の心を捉えてきたんですね。
全体主義というのは、言い換えれば責任者不在ということで、つまり無責任体制のことを言うんですよ。そういう論証をする方を去年の暮れに見つけて、全体主義をテーマにした作品を作りたいと思ったんです。ただ、こんな面倒くさい話をアニメでできるのか?できるわけがない。だけども、観念としてはそれくらいの狙い目を持った上で作品を作ることをしていかないといけないということは、さっきからさんざん繰り返したとおりです。
次回作の展望に関して。熱心な富野ファンなら、最近、氏がハンナ・アーレントに傾倒していてそのことを言っているんだなと分かるのですが、インタビューの文中であえてアーレントの名前を出さないのがまた良いんですよね。アーレントが素晴らしい、アーレントを読め、という話になってしまうと、それはインテリだけに向けた話になってしまう。面倒くさい哲学書なんて読めない、だけどアニメだったら見ると言った人たちにも伝わるように出来ないのであれば意味がない。それは簡単ではないけれども、それくらいのことを出来ないのであればやる意味がないという決意なんですよね。
ああ、37億くらいあれば映画一本撮るよって、言いましたね。それくらい吹いておけば、誰かが17億くらいだしてくれるかな、と(笑)。その冗談話をしたときには、このテーマは頭にあったんだけど、そっちはガンダム的な作品で、全体主義が地球を破壊してしまったあとの物語という構想なので、そんなに全体主義のことは考えなくてもいいんです。もっと全体主義に踏み込んだところで作りたいのはシリーズものです。これはかなり難しい。まず全体主義というテーマをどうアニメにするかが問題。で、ようやくその回路が見つかりました。ただ、それをどうやって具体化していくのかの方法論が分からない。なぜかというと、前例がないからです。多分そんな機会はいただけないと思うから、自腹を切って35周年記念作品にしたいと思うけど、個人で1億出すのはいやだし、そうするとプライベートフィルムになる危険もあるから、資金は外からひかないといけない、と思っています。
これも素晴らしい話。映画やるなら10何億かけてやらなきゃというのは当然で、そうでなきゃ世界には届かないんですよね。内輪で、日本国内でガンダムやアニメが好きな人たちに向けて作るだけなら5億6億あれば作れるだろうけれどもそれは意味がないと。そしてシリーズものに関しては、外部から資金はひくべきだけれども、最悪自腹を切ってでも作るという覚悟を見せる。富野由悠季が、自腹を切ってでも作ると言っているものに金を出さないなんて愚は有り得ないですよね。5年後のガンダム35周年までに、それを形にしてみせると。これ以上何を望むのかというほどの嬉しい言葉。
対談全体を通して感じたのが、とにかく分かりやすい言葉、むつかしくない言葉でしゃべろうという意識が徹底しているなということ。ともすれば、富野語と揶揄されるような、熱心なファン以外には何を言ってるのかさっぱりわからない感情にまかせた言葉遣いをしがちだった富野監督が、本当の意味で成熟したんだなあと。そしてわかりやすいということは、商業的にも成功する可能性が高いということ。分かる人だけ分かればいいという態度で作ったものは結局大衆には敬遠されてしまうというのは、ターンエーガンダムやキングゲイナーを作ってきた経験からもおそらくは実感していることでしょう。なんとなればガンダムというイコンを利用することも視野に入れた上で、新生富野由悠季がどのような作品を我々の目の前に呈示してくれるのか、今から楽しみで仕方ありません。