「脱出」を読む

 なんという美しい物語なんだろう。ガンダムにたどり着いたアムロが、その力でもってクルーを導く流れで涙を押しとどめることが出来なかった。生き抜く。生き抜こうとする意志。スポンサーのごり押しで設定されたガンダムの合体機構すらも取り込んで、なんとしても生き残るんだという強い意志が、時代の徒花として死ぬ運命にあったアムロを生かした。例え最初のプロットがどうであれ、ここでアムロが生き抜くのは作劇として圧倒的に正しい。その正しさに抗わずに身を任せたからこそ、ガンダムは時を越える名作になったのだろう。

 ニュータイプの在り方をまことしやかに説くシャアに対し、それは理屈だと切り返すアムロニュータイプの感応能力というのは、理屈ではない、体全体で感じるものなんだという示唆に溢れている。それは、例えば頭だけになって生き残ろうとするシャアのジオングと、頭を吹き飛ばされても体全体で生き残ろうとするガンダムという対比にも見て取れる。

 シャアをニュータイプとして、共にララァと交感したものとして相対するアムロに対してシャアはそれを感受出来ないことが徹底して描かれる。アムロと直接触れあった時に流れ込むイメージに、またアムロの叫びに、シャアもまたニュータイプであったのかと思いもするが、あれはカイやハヤトやブライトがアムロの声を聞いたのと同様に、アムロからシャアへの一方的なメッセージだったのであろう。ニュータイプ同士の感じ合い方というのを最後までシャアは知ることがない。

 シャアの背中を見送るセイラは、心の中でシャアに呼びかけていたのかも知れない。ニュータイプなら、その想いを感じ取ってくれ、と。しかしシャアは振り返ることもない。それでもセイラ―アルテイシア―の前でマスクを取ったシャアには一片の真実があったと思いたい。思いたいが…しかしシャアは最後まで味方を欺いて生き残る道を選ぶ。それをこのように男前に描くというのは、面白くはあるが皮肉の効いた話でもある。

 それにしても、ホワイトベースクルーに迎えられる最後のシーンは本当に美しい。「ララァにはいつでも会える」というアムロの台詞は、いつでもあちら側に行けるという意味ではなく、文字通りの意味で何時でも会えるということだったのかも知れないな、ということも感じた。その解釈が例え続編でのアムロの状況と食い違っていたとしても、そう考えるのがむしろ物語として美しくも思える。あくまで一つの妄想として、そんなことを考えたりもしました。