カイヨワの4分類と「ゲームの正体」 アゴンとアレア

 ずいぶん長いこと間が空いてしまいましたが、年が明けないうちに本論に手をつけておこうと思います。

序論:ゲームとは何か コスティキャンのゲーム論を越えて - 未来私考
ゲームの魅力を支える「娯楽の核」 - 未来私考

 序論において、娯楽の核はカイヨワの遊びの概念に還元できるといった旨のことを書きましたが、カイヨワの4分類(競争、偶然、模倣、眩暈)がそれぞれどのように娯楽の核と結びついているのかについて明らかにしてみようと思います。

偶然の遊びは予測の遊び

 カイヨワの4分類のうち、特にゲームと結びつけて考えられている偶然(アレア)の遊び。その代表例としてサイコロ遊びやじゃんけんといったものが持ち出されるが、実のところただサイコロを振るだけ、じゃんけんをするだけでは「遊び」は発生しない。例えば組み分けや便宜的な順番付けのためだけにじゃんけんを用いた場合、そこに遊びの要素はない。しかし、例えば組み分けのためのサイコロで、特定の組に入りたいという希望を持ったとき、そこに遊びの萌芽が生まれる。サイコロを振るときに、1の目なら1の目、6の目なら6の目を出ることを念じながら振ること。そこに遊びの根源がある。

 これはどういうことか。例えば6面ダイスなら1から6の6パターン、じゃんけんであればグーチョキパーの3パターンという有限の可能性が提示される。この、可能性が有限であるという点がとても重要で、その有限の可能性の中からどの可能性が選択されるのかということを期待し、予測するときに人は面白さを感じるということです。

 この時プレイヤーはプレイヤー自身の過去の経験、ルールの様態、対戦相手の状態などを考慮して予測判断を下すわけですが、その予測材料が必ずしもあてにならないのが、<<偶然>>の遊びなんですね。たとえばサイコロ賭博の大小で、大が10回連続で出たから次こそは小がでるだろうなんてのはいかにも無根拠で不確かな予測ですが、だからこそ結果に一喜一憂することが出来る。これを確率論に従って機械的に選択してしまえば、同じ賭け方であっても面白さはずっと小さくなってしまう。偶然の面白さというものは、プレイヤー本人の予測する意思の有無によって大きく違ってくる。優れた偶然の遊びは、プレイヤーに結果を予測させるための仕掛けが多数施されていると言ってもいい。

競争の遊びは比較の遊び

 次に競争(アゴン)についても検討してみよう。カイヨワはかけっこや格闘技、あるいは勝敗の要素のあるもの全般を競争の遊びとして定義している。しかし実のところただ勝敗を求めるというだけの行為には面白みというのはどれほどあるのか。例えばある算術筆記のテストを想像してみる。問題を出されてこれを出来るだけ早く解いてくださいと言われる。問題を解いた後で一方的に「あなたは隣の部屋の人に勝ちました」とだけ言われても面白いとは言いがたい。

 ここで、もしテストの前に対戦する相手がいることを伝えられ、その人となりや能力、あるいは実際にその相手と顔を合わせたりしたらどうだろう。先ほどの勝敗だけの状況に比べて格段に面白さが増すとは思わないだろうか。更に、実際にテストにかかった時間の計測結果を聞かされ、自分のタイムと比較できた場合、よりいっそう面白さが増すことも想像できる。そう、競争の遊びとは誰と競って、どのように勝った/負けたのかを比較することにこそある。つまり優れた競争の遊びは、プレイヤーに結果や過程を比較させる仕掛けが多数施されている、と言い換えることができる。

2つ以上の遊びを結びつける

 カイヨワの遊びの4分類はよく誤解されているのだが、ある遊びがどの分類に当てはまるのかをカテゴリ分けするためのものではなく、ひとつの遊びの中にそれらの遊びの要素が含まれており、多くの場合はひとつの遊びの中に複数の遊びの要素が含まれていることを語っています。そして今日ゲームと呼ばれているものも、基本的に1つのゲームの中に複数の遊びの要素によって構成されている。

 もっとも原初的なゲームともいえるサイコロによる大小当てゲームを想定してみよう。このゲームは現代では多くの場合、一定以上の複雑さを出すためにダイス2個ないし3個で行われることが多いが、ここでは単純化のためにダイス1個で考えてみる。

 2人以上のプレイヤーのうちから選ばれた一人が6面ダイスを1個振り、残りのプレイヤーが出目を予測して1〜3なら小、4〜6なら大と言い当てるというのが大小というゲームの基本ルール。まずこの状態で、何の賭けも行わずにプレイをしても遊びとして一定の面白さを人は感じることが出来る。予想が当たったはずれたと一喜一憂して、しかし飽きが早いこともまた容易に想像が出来る。単一の<<偶然の遊び>>だけではすぐに面白さが消尽してしまう。

 そこで賭け金というものが導入される。賭け、ギャンブルというものは多くは<<偶然の遊び>>に分類されるが、勝敗によって賭け金が移動するということは純然たる競争の遊びであると断じてもいい。勝敗の結果としてトークンが移動する。そのトークンの多寡を比較するというのが賭け金の本質的な役割だからだ。これは賭ける物が現金ではなくおもちゃ銀行券でも何でも面白さが発生するということを考えてもらえれば分かり易い。何故おもちゃ銀行券よりも現金のほうがより盛り上がるのか、ということはまた別の遊びの要素が絡んでくることなのでここでは割愛する。

 大小という単純な偶然発生のためのルールと、その結果による賭け金の移動という競争要素。この2つを組み合わせるだけで原初的なゲームが出来てしまう。実際やってみれば、これだけでも十分な面白さが備わっていることが分かるだろう。しかし多くの人はただこれだけのゲームでは満足することが出来ない。ゲームに習熟し、ルールの全体像を把握出来るようになると、もっと複雑なゲーム、もっと多様な要素を持ったゲームを求めるようになる。

 飽きる、つまらなくなるというのは、ゲームの構成要素を理解し、そのゲームにおける最適行動が発見されてしまうということ。大小であれば、サイコロの出目が十分に平準化して、それが完全に等分の確率によって現出するということが理解されてしまえばそこで飽きが来る。それを避けるために現代ルールではサイコロの数を増やし、ゆらぎを加えることで単純な最適行動を読みにくくするようにしているが本質的には同じことである。

 そこで重要になってくるのが、カイヨワの4分類におけるもう2つの要素、<<模倣>>と<<眩暈>>である。次回ではその2つがゲームにおいて果たす役割について解説していきたい。